千葉県ぐるっとウォーキング 第31回 五井駅~姉ヶ崎駅

 いよいよ最終回だ! 今回は「五井駅」から「姉ヶ崎駅」まで駅一つである。今回は「古代」がテーマで、「養老川」を越えて川の左岸、古代「海上郡(うなかみごおり)」の 2 つの式内社と「上海上国造(かみつうなかみくにのみやつこ)」氏族の奥津城(おくつき)とされる古墳を訪ねよう。

写真1 JR五井駅

 2023 年 12 月 29 日 9:12 に「JR 五井駅」西口をスタートした。今日は快晴の予報。空はスッキリと晴れわたり雲一つ無い。前回、ゴールしたのは「五井駅」の東口だったが、今回は西口からスタートする。「市原」には JR 内房線の線路より海岸側に江戸時代に確立した道「房総往還道」が通っており、古代には海の砂が堆積してできた「砂堆列(さたいれつ)」であったところ。そこから約 2 km 離れた現在の「館山自動車道」の先は「市原台地」と呼ばれる台地であり、そのへりまで「海岸平野」が続いていた。「五井」についていえば、駅の東側の「海岸平野」に当たる部分は田圃であり、かつては市街化調整区域に指定されていて何も建てられなかったが、現在は「アリオ市原」「カインズモール」といった商業施設が建ち並び、さらに「更科公園」も整備されて新しい町が作られている。それに対して、「房総往還道」の宿場町として栄えた西口エリアは、中心だった「イトーヨーカドー」が東口側に移転して、以前の賑わいがなくなってしまった。 

「五井中央通り」を西に進むと「大宮神社」の「一の鳥居」がある。ここで右折して参道を進むと「二の鳥居」の向こうに社殿が見える。境内の説明板によれば、「大宮神社の社名は広大な境内に由来し、 鎮座は景行天皇の御代、日本武尊が御東征された折りの創建と伝えられる。その後、治承四年(1180)に源頼朝が当社に参詣し、奉幣祈願をしたという記録がある」との事で、ここでも前回同様「日本武尊」と「源頼朝」が登場する。また、小田原の北条氏が戦勝祈願のため太刀一振を奉納している。本殿は三間社流造りで、拝殿は昭和 39 年の再建らしい。

 祭神は「国常立命(クニノトコタチノミコト)」「天照皇大神」「大己貴命(オオアナムチノミコト)」の三柱。この「国常立命」だが、『日本書紀』の冒頭部分を下記に示すが、最初に出てくる神がこの「国常立命」である。


 昔、天と地が分れず、陰の気と陽の気も分れず、混沌として未分化のさまはあたかも鶏の卵のようであり、ほの暗く見分けにくいけれども物事が生れようとする兆候(きざし)を含んでいた。その澄んで明るい気が薄くたなびいて天となり、重く濁った気が 停滞し地となるその時、清く明るい気はまるく集るのがたやすいが、重く濁った気は凝り固まるのが困難である。そのために、天がまずできあがり、地は遅れて定まるところとな った。かくして後に、神がその中に生れた。
 そこで、次のようにいわれている。 天地が開ける初めの時は、州や島が浮び漂うこと、ちょうど泳ぐ魚が水の上に浮いているようなものであった。その時、天と地の中にある一つの物が生れた。形は萌え出るの芽のようで、そのまま神となった。 国常立尊(クニノトコタチノミコト)と申す [非常に貴いお方は 「尊」といい、それ以外は「命」という。 どちらもミコトと訓む。以下みなこれにならえ〕。次に国狭槌尊(クニノサツチノミコト)。次に豊斟渟尊(トヨクムヌノノミコト)。 合せて三柱の神である。この三神は陽の道のみを受けて生れた。よって、この純粋な男性を作ったわけであるという。

日本古典文学全集「日本書紀」口語訳

 この神は、名前を分解すると「国」「常」「立」であり、「国土(国)の恒久的な(常)存立(立)の表象」であるとされる。この根源的な神に、「天つ神」のトップの「天照皇大神」、「国つ神」のトップの「大己貴命」を加えているから、豪華な祭神構成だ。

写真2 大宮神社二の鳥居
写真3 大宮神社拝殿
写真4 大宮神社本殿

「大宮神社」から西に歩くと「養老川」の堤防に出る。ここにかかる「養老橋」を渡り、「房総往還道」を南へと進み「島野」で左折する。この先に「島穴(しまあな)神社」がある。「島野」の町の中に「宮司宅」との表示が出ていた。

写真5 養老川にかかる養老橋を越える
写真6 JR内房線の線路を越える

「JR 内房線」の線路を越えると、右手にこんもりとした杜が見えてきた。あれが神社だろう。

写真7 島穴神社の杜

 近づくと、杜の手前の田圃が「神餞田(しんせんでん)」となっている。「神餞田」は神に属し祭祀に供せられる稲を作る田である。「神社」の前には「前川」から分岐した小川が流れており、橋の先に「二の鳥居」がある。「こんなところにこんな立派な神社があったのか!」、これが素朴な感想だった。神社はいかにも古い。それもそのはずで「延喜式神名帳」に「海上郡」2 座と書かれているうちの 1 座である。ちなみに、もう 1 座はこの後訪れる「姉崎神社」だ。

写真8 島穴神社 二の鳥居
写真9 島穴神社拝殿

 拝殿の向拝には精巧な龍の彫刻が施されている。本殿にも彫刻が見られるが、描いている具象ははっきりとは分からない。「市原歴史博物館」のホームページによれば、「戦国大名北条氏の兵火ですべて焼失したとされ、本殿は天明年間、拝殿は嘉永年間の再建です。拝殿に掛かる扁額は、寛政の改革で知られる松平定信の筆によるものです」とある。残念ながら、額の写真を撮っていない!

写真10 島穴神社 向拝部の彫刻
写真11 島穴神社 本殿

 祭神は「志那津彦命(シナツヒコノミコト)」(日本書紀では「級長津彦命」)で「イザナギ・イザナミ」から生まれた「風の神」である。社伝によれば、「日本武尊」が東征の際に海路の平穏を祈願して風神「志那都比古尊」を祀り、景行天皇の巡行のとき「日本武尊」と「倭比売尊」を祀ったのが始まりだという。ここでもまた「日本武尊」の伝承が関係している。

 この「志那津彦命(シナツヒコノミコト)」だが、「國學院大學」の「神名データベース」によれば、「シナツのシは、ニシ・ヒムカシ・アラシなどに同じく、風を意味する言葉と考えられる。『日本書紀』の「級長津彦命」の表記を参考に、ナを長いの意と捉え、シナを風の長いことの意とする説がある。ツは助詞で、ヒコは男性の意とされる。また、シナツをシナト(風な処)と考え、風の吹き起こる処と解する説もある。シナトは、六月晦大祓祝詞に『科戸(シナト)の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く』とある。トは、単なる場所の意ではなく、入口のすぼまって奥行きに広がりのある場所を指すとする見方もあり、シナトを風の吹き起こる大元の戸口と解する説もある」と説明されている。また、風を表す「シ」には「息」の漢字を当てることもあるので、この神は古代豪族の「息長氏(おきながうじ)」と関係があるのかもしれない。

 この「島野」の地は、上古代には「総国駅家」の一つとして古代交通上の要所だったらしい。『日本の神々 神社と聖地 関東編』の「島穴神社」の項には「当社の北約 200 メートルの水田中に 30 坪ほどの森があり、里伝によれば、島穴神社はもとここにあって、昔はかなりの広さをもち、松樹鬱蒼と茂るなかに深い穴があり、その中から清い風が常に吹いていた。これは風神である志那都比古命のなすところで、島穴という社名もそれに由来する。この森の中に嘉永年間(1848 – 54)に建てられた『島穴神社原地碑』が残っているが、『深い穴』の跡らしきものは見当たらない。『深い穴』がいかなるものであるか現在のところ不明といわざるをえないが、その地は水田中に一段高くなっており、古墳の石室の可能性もある」と書かれている。この神社は後で説明するが「姉崎神社」と対をなしている。ここは古代「上海上国造(かみつうなかみくにのみやつこ)」が支配した土地である。


「島穴神社」から「前川」を越えて「平成通り」に入る。この通りは JR の線路に平行し、海岸平野を縦断している。およそ 40 分歩いて「姉崎二子塚古墳」に出る。図 1 は「姉崎」付近の古墳地図だが「姉崎」地区に古墳がたくさんあることがわかる。「市原」市内には 1000 基を超える古墳が存在しているが、大規模なものは「姉崎」地区に集中しているそうである。「姉崎古墳群」と呼ばれるこれらの古墳は 4 世紀後半から 7 世紀後半に作られ「前方後円墳」や「円墳」で古代この地域を支配した「上海上国造」氏族の墳墓であると推定されている。一方、前回の「養老川」右岸の「市原台地」にある古墳は「前方後方墳」と「方墳」で種類が違っており、左岸と右岸では氏族が違うのではないかと考えられている。

図1 姉崎地区の古墳群
写真12 二子塚古墳

「二子塚古墳」は「砂堆列」の上に築かれた 5 世紀中頃の「前方後円墳」である。埋葬施設は木棺直葬で、すでに失われており、後円部より「石枕」が出土しているとのこと。現在周囲に住宅が作られ公園風になっている。復元すると全長 160 m の巨大な古墳である。

 ここから南へ、「天神山古墳」へと向かうが、途中、昼食をと思い「らぁ麺ひなた」を覗いたが、客がたくさん待っていたので残念ながらパスする。ここのラーメン、とても丁寧に作られた上品な逸品で大人気となっているのだ。腹をすかせた私は「らぁ麺ひなた」の先を右折して丘を登っていく。かなりきつい上りである。道の右手、こんもりした山になっているのが古墳だ。細い道を入ると道の右側に古墳上へ上る階段がある。左には「天神山古墳」と書かれた標識が立っていた。階段を上りきると「社」があった。これが「菅原神社」で、このためこの古墳は「天神山古墳」と呼ばれている。

写真13 天神山古墳の森
写真14 天神山古墳上への上り口
写真15 天神山古墳上の菅原神社

 古墳の形状は「前方後円墳」。築造時期は4世紀前半から中期ごろと思われ、古墳の規模は、全長 128 m、高さ 14 m で、「姉崎古墳群」では最大規模である。発掘調査はされていないので、埋葬施設は不明で、埴輪などの遺物も得られていない。

 元の道路に戻り西へと進むと、急な坂の前に出る。左折して坂を登り切ったところが「姉崎神社」の駐車場だ。鳥居が見えている。姉崎神社の入り口は 3 つある。一つは台地の下の「一の鳥居」から「男坂」の階段を上り「二の鳥居」に至る正面ルート、二つ目は台地下から「女坂」を上がって社務所の横に出る林間ルート、三つ目がこの台地上にある駐車場から入るルートである。

写真16 姉崎神社の駐車場横の鳥居
写真17 姉崎神社 神門

 鳥居の先の「神門」を越えると、左側に「御社古墳」さらにその奥に全長 93 m、後円部の高さ 12 m の「前方後円墳」である「釈迦山古墳」がある。これは 4 世紀後半のものと推定され、先の「天神山古墳」に続いて古い。さらに、図 1 に示す様に、ここより南、同じ台地上に「鶴窪(つるくぼ)」「原(はら) 1 号」そして「六孫王原(ろくそんのうばら)」と 3 つの「前方後円墳」が続いているのである。年代順に並べると、4 世紀前・中期「天神山」→ 4 世紀後期「釈迦山」→ 5 世紀中期「二子塚」→ 6 世紀初期「鶴窪」→ 7 世紀後期「六孫王原」となる。つまり、古墳の出現期から古墳時代前期までは台地の上に古墳が造られ(「天神山」「釈迦山」)たが、古墳時代中期になると海岸平野に降り(二子塚古墳など)、その後、古墳時代後期になるとまた台地の奥に造られるようになった(「六孫王原」)のである。何か理由があるはずだが、これについてはまた別なところで考えてみたい。なお、「姉崎神社」の境内にはあと 2 つ古墳がある。「日本武尊白波御上覧」の碑の横にある「御社 2 号墳」、「浅間神社」の富士塚である「御社 3 号墳」である。

写真18 御社2号墳
写真19 御社3号墳

 今日は 12 月 29 日なので初詣の準備か、境内の一角に人が集まり打ち合わせ中であった。その横を抜けて「拝殿」に進む。毎年、初詣で訪れているが、こぢんまりとはしているがなかなか立派な社殿である。式内社であるが、社殿は昭和 61 年(1986)の火災で焼失し、現在のものはその後の再建だそうだ。

写真20 姉崎神社拝殿
写真21 姉崎神社拝殿(正面)
写真22 姉崎神社 本殿

 主祭神は「志那斗弁命(シナトベノミコト)」で、「島穴神社」の「志那津彦命」の妃であり、神社のホームページによれば、「景行天皇 40 年(110)日本武尊(やまとたけるのみこと)御東征の時、走水(はしりみず)の海(浦賀水道)で嵐に遭い、お妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)の犠牲によって無事上総の地に着かれた。この宮山台において、お妃を偲び、かつ舟軍の航行安全を祈願し、風神志那斗弁命(しなとべのみこと)を祀ったのが創始と伝えられる」とのことで、さきほどの「御社 2 号墳」の写真で左側の碑の場所が「日本武尊」の上陸場所だとされている。また、「その後父である景行天皇がこの地を訪れられて日本武尊命の霊を祀られ、さらにこの地を支配していた上海上の国造(かみつうなかみくにのみやっこ)が天児屋根命、塞三柱神(さえのみはしらのかみ)、大雀命(おおさざきのみこと)(16 代仁徳天皇)を合祀されたといわれる」とのことだ。

 この初代「上海上国造」である「忍立化多比命(オシタテケタヒノミコト)」は『国造本紀』によれば、「天穂日命(アメノホヒノミコト)」の八世孫とされる「天照大神」の子孫であり、その氏神がこの「姉崎神社」だったらしい。この氏族はおそらく船でこの地に入植し、この台地上に氏神の社と奥津城を築いたのだろう。この場所は古代は東京湾を望む絶好の高台だったと思われる。

 境内には多くの杉の木は見えるが、「松」が一本も無い。これは「姉埼神社の主祭神の志那斗弁命は女神であり、夫神志那津彦命(島穴神社の御祭神)の帰りを待ちわび『待つは憂(う)きものなり』と歎かれ同音の『松』を忌むようになったと伝えられる。この姉崎(姉前)という地域名もこの伝承が語源ともいわれる。境内は勿論、氏子地域では、1本の松樹を見ないこと事と合わせ、正月の門飾りには松の代わりに竹と榊(門榊(かどさかき))を用いている。また、新年の挨拶状、家具や服の模様などにも一切松を使用しない氏子もいる」と神社ホームページに解説されている。ただ、この説明だとなぜ「姉」なのかが分からない。もう一つ、「姉弟の神がいて、先に姉神がこの地に到着し、弟神を待ったことから『あねさき』の神社名、地名になったと言い伝えられている」と「市原ふるれんネット 姉崎神社」にある。つまり、「志那斗弁命」「神志那津彦命」を夫婦ではなく、姉弟と解釈するのである。もう一点、今まで理由が分からなかったことがある。それは地名は「姉崎」だが、JR の駅名はなぜ「姉ヶ崎」かという点である。これについても「市原ふるれんネット」に答えがあった。「江戸時代以降
俳句等の普及で姉ヶ崎という表現が流行し、通称となった」とのことで、駅名はこの「通称」と採ったのだろう。これで私はかなり「姉崎」通になったわけである。

 さあ、ゴールの「姉ヶ崎駅」へ向かおう。[二の鳥居」をくぐり、「男坂」の 163 段の石段を下る。下り終わったところに「一の鳥居」がある。

写真23 姉崎神社 二の鳥居
写真24 姉崎神社 男坂
写真25 姉崎神社 一の鳥居

「姉崎神社」を後に、「久留里街道」に入って北へ進む。途中、これも人気のラーメン店「天一」の長い行列を横目に、駅への道を急いだ。駅前では「姉崎門前市」のゆるきゃら「あねぽん」が私を迎えてくれた。そして 12:06 、ついに「姉ヶ崎駅」にゴール。今日の歩行距離 11.1 km、時間にして 2 時間 55 分だった。

 これで 1 月 2 日から始めた「千葉県」の外周ウォーキングが完了した。歩行日数は合計 31 日、歩行距離は最初の予想より大幅に増加し、なんと 752.3 km だった。どうなることかと思ったが、「やればできるものだ」と実感する。(なお、空腹の私はこのあと、駅近くの「辰巳屋」さんでラーメンならぬ日本蕎麦をいただいたことを付記しておく。)

写真26 あねぽんの像
写真27 姉ヶ崎駅にゴール
図2 千葉県ぐるっとウォーキング全工程

千葉県ぐるっとウォーキング 了

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