旧東海道歩き旅(1)日本橋~品川宿(2024.1.4)

旅の始まり

 2024 年 1 月 4 日の朝 8:40、私は「日本橋」から「京の三条大橋」を目指して歩き始めた。「旧東海道歩き旅」の始まりである。

お江戸日本橋 七ツ立ち 初のぼり

行列そろえて あれわいさのさ

こちゃ高輪 夜明けて 提灯消す

(こちゃえ こちゃえ)

民謡「お江戸日本橋」

 民謡「お江戸日本橋」の歌詞にある「七ツ立ち」の「七ツ」とは午前 4 時である。江戸時代の旅は夜明け前に出発して、夕暮れ前に宿に入る。男子ならば 1 日、およそ 40 キロ、女子・老人でも 30 キロは歩いたという。時速 4 キロとすると歩行だけでおよそ 10 時間、これに食事・休憩・見物等を加えると 12 時間を越える。朝 4 時に出発しても、宿に着くのは 16 時だ。当時は歩くのが移動の基本だとはいえ、その健脚ぶりには恐れ入る。

 これから歩く「東海道」は江戸時代に「江戸」を基点として整備された五街道の一つ。ちなみに「五街道」とは東海道・中山道・奥州街道・日光街道・甲州街道である。特に「江戸」と「京」をつなぐ幹線道路の「東海道」は多くの人々が行き交った。幹線道路としての形が作られたのは、「関ヶ原の戦い」が終わってすぐの慶長 6 年(1601)、幕府は東海道の各宿に対して、徳川家康の「伝馬朱印状」と「御伝馬之定」を交付する。これによって「宿駅伝馬制度」が敷かれ、「近世の東海道」が成立した。この「宿駅」とは街道沿いの「宿場」のことで、「伝馬」とは道中の駅や宿などに置いた「公用輸送のための馬」のことをいう。「公用」というのがポイントで、幕府の書状や荷物を「宿駅」ごとに人馬を交替させながら運ぶ制度が「宿駅伝馬制度」なのである。多数のランナーが交代でたすきをゴールまで運ぶ「駅伝競技」の名前はここがルーツである。「関ヶ原」後の不安定な時期である。京・大阪の不穏な動きをいち早く察知し、それに対して軍を差し向ける必要がある。当初の「東海道」は軍事目的で整備された幹線道路だったのである。それが、庶民の旅へと変化するのは、元禄時代(1688〜1704)以降である。宿の設置は順次行われ、寛永元年(1624)に最後に庄野宿が追加されて 53 宿が整い、「東海道五十三次」となった。ここで「次」というのは、輸送の範囲は原則として隣接する宿場までと定められていたため、「継ぎ代え」を必要としたことによる。

「東海道五十三次」の総距離は 492 キロ、江戸時代の人々はこここを 14 ~ 15 日で歩いたという。さすがにそれは無理だ。一日 20 キロ歩けば 25 日という計算になるが、私の場合ははたして何日かかるだろうか? 

日本橋から品川宿

図1 行程

日本橋

 話は「日本橋」に戻る。前夜の雨がまだ残り、時折パラパラとくるどんよりとした曇り空だ。これから天気は快方に向かい、お昼頃には快晴になるという。仕事始めの日なので、人はさほど多くない。電車も空いていた。今年は元旦に能登の地震、羽田での飛行機事故が立て続けに起こり、不穏な幕開けだった。この後、何事もないことを祈るばかりだ。

図2 安藤広重 東海道五十三次 日本橋 朝之景

 高速道路に覆われた薄暗い「日本橋」、昔の風情はない。1964 年の「東京オリンピック」に合わせて作られた高速道路だが、現在、地下化の動きが始まっている。地下ルートの完成は 2035 年度、高架の撤去完了は 40 年度を予定するとのこと。あと 16 年、それまで元気でいたいものである。

 さて、「日本橋」には道路の起点となるポイントを示す「道路元標」がある。明治 44 年、橋の架橋時に橋の中央に「東京市道路元標」(「都」ではなく当時は「市」)が設置されたが、昭和 47 年の道路改修で橋の北西詰の「元標の広場」に移動し、元標があった場所には新たに「日本国道路元標」が埋め込まれたとのこと。写真 1 の中央の柱状のものが「東京市道路元標」、その左に「日本国道路元標」、私はこれが本物だと思っていたのだが実はレプリカで、実物は橋の中央の車道に埋め込まれているのだそうだ。また、橋の中央には見事な麒麟像と唐獅子像がある。麒麟像からのスタートとなるが、誰かが置き忘れた傘が欄干にぶら下がっていた。

写真1 東京市道路元標と日本国道路元標のレプリカ(撮影2023年12月)
写真2 日本橋 麒麟の像

京橋

「日本橋」を後に、「国道 15 号(第 1 京浜国道)」を南に歩く。このあたりはこの道が「旧東海道」と重なっている。かつては「日本橋」から「京橋」を経て「新橋」までは河川に囲まれた町で「河岸(かし)」であった。現在、川は「日本橋川」を除いてみんな埋め立てられ、その上を高速道路が走っている。「京橋駅」を過ぎると首都高の手前に「京橋」の碑がある。「京橋」は「京橋川」にかかる橋であった。地図を見ると国道の西側の路地に「京橋大根河岸通」、東側の路地に「京橋竹河岸通」という名が残っている。「大根河岸」には青物市場があり多くの大根が荷揚げされ、「竹河岸」には竹問屋が並んでいたという。写真 5 は「江戸歌舞伎発祥の地の碑」である。寛永元年(1624)、猿若中村勘三郎が「中橋」(現在の日本橋と京橋の中間)に、猿若中村座の櫓をあげたのが江戸歌舞伎の始まりらしい。高速をくぐったところには「煉瓦銀座の碑(写真 6)」があり、「京橋の親柱」が残されている。

写真3 京橋の碑
写真4 京橋 大根河岸青物市場の碑
写真5 京橋 江戸歌舞伎発祥の地の碑
写真6 京橋の親柱とガス灯

銀座・新橋

 ここから「銀座」に入っていく。TOKYO GINZA OFFICIAL というホームページによれば「『銀座』の地名は、江戸時代の『銀座役所』に由来します。1603 年に江戸幕府をひらいた徳川家康は、駿府にあった銀貨鋳造所を現在の銀座 2 丁目に移しました。その場所の正式な町名は新両替町でしたが、通称として『銀座』と呼ばれるようになったのです。ところで、『銀座は海の中だった』と言う方がありますが、江戸以前の銀座周辺は完全に海の中であったわけではありません。銀座は江戸前島という、東京湾に大きく突き出した半島の先端部の低湿地帯であったと考えられています。それらの低湿地帯と日比谷入江、築地方面を埋め立てることから、江戸のまちづくりは始まったのです」とあった。ここで気になったのはこの「江戸前島」である。更に調べると、「東京都地質産業技術協会」のテクニカルノートに地図(図 3)が出ていた。「日本橋」から「京橋」「新橋」に至る道は、家康の入府当時は「江戸前島」と呼ばれる砂州上の道だったようで、その先の「愛宕山」との間は入り江になっていたようだ。この入り江は 1636 年頃の地図では埋め立てられて消失している。

図3 江戸の地形の変遷 出典「東京都地質産業技術協会」https://www.tokyo-geo.or.jp/technical_note/bv/No37/10.html

 図 4 は寛政 9 年(1797)に書かれた秋里籬島の「東海道名所図会」であるが、左図の下の橋が「京橋」、右図の右中央の橋が「新橋」で、それらを通って上にのびる道が「旧東海道」である。右上に「愛宕山」が見えている。この時期には日比谷の入り江は埋め立てられているが、左側に海が迫っている様子がよく分かる。遠くには「品川」が見えている。左図中央の屋根は「西本願寺」通称「築地本願寺」である。このあたりは「築地」、つまり、文字通り「埋め立て地」だった。江戸時代にはこういう道を歩いていたのである。

図4 京橋・新橋 秋里籬島「東海道名所図会6」 (出典 国立公文書館アーカイブ)

 現在の銀座を歩く。ビルの谷間だ。1 月 4 日の朝なので人は余りいない。時折、外国人の姿を見かける。写真 8 は銀座 2 丁目の「銀座発祥の地の碑」である。

写真7 銀座を歩く
写真8 銀座発祥の地の碑

 高速道路の際に「新橋の親柱」があった。この先、「新橋駅」の東口の前を通り、JR の線路をくぐっる。すぐ「日比谷神社」があったのでちょっとお詣りしておく。初詣で賑わっていたが小さな神社なのでそんなに人は多くない。主祭神は「豊受大神(トヨウケノオオカミ)」で伊勢神宮外宮の祭神である。

写真10 新橋の親柱
写真11 日比谷神社

芝・三田

 その先、右手側に「芝大神宮」がある。初詣の長い行列見えた。時間がかかりそうなのでお詣りをあきらめる。ここは江戸時代には「飯倉神明宮」あるいは「芝神明」と呼ばれていた神社で、「天照大神」を祭神とする「神明神社」である。その先の右側が「増上寺」でちょっと迷ったが、せっかくなので立ち寄ろうと、「旧東海道」から離れた。「増上寺」は徳川家の菩提寺で、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の、六人の将軍の墓所が設けられている。時刻は 9:48、予報どおりにいい天気となり、青空の下、「増上寺」と「東京タワー」のツーショットが撮れた。

写真12 芝増上寺と東京タワー

「芝公園」に沿って南下する。二代将軍徳川秀忠の墓所である「旧台徳院霊廟」の前を通る。写真の「惣門」は入母屋造八脚門。霊廟の大部分は東京大空襲で消失したが、この惣門は残った。なかなか立派な建物だ。

写真13 旧台徳院霊廟惣門

 この道を真っ直ぐ進むと「第一京浜」と出合う。その交点あたりに「江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地の碑」があるはずだ。探すと国道を渡ったところのビルの角に写真 14 の碑があった。隣にある説明板によると、ここはかつて薩摩藩の蔵屋敷で、江戸城の開城をめぐって西郷隆盛と勝海舟が会見を行った場所である。今はビルの谷間であるが、蔵屋敷の裏は海に面した砂浜で、ここに船が入り薩摩から米などの荷物が荷揚げされたとのこと。海岸線は田町駅のあたりで JR の線路を越えて出っ張っている。さきほどの図 3 の右図の左端中央やや上にこの蔵屋敷と砂浜が描かれている。

写真14 江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地の

高輪

「三田」から「高輪」に入る。このあたりは西側が高台(つまり、いわゆる山の手)で左側がすぐ海だった。海から見ると高い台地の際に縄手道(あぜ道)が通っているので「高縄」、これが転じて「高輪」になったという。秋里籬島の「東海道名所図会」(図5)にこの高輪の様子が描かれている。右図の右端にあるのが「大木戸」である。「大木戸」は簡易的な関所のようなもので、江戸市内の境界。ここより右手が江戸の町である。「大木戸」の左には多くの茶店が立ち並んでいる。柵のあたりに「泉岳寺」に上がる道が描かれている。

図5 高輪 秋里籬島「東海道名所図会6」 (出典 国立公文書館アーカイブ)

 「高輪大木戸」の前で時刻は 10:39、「日本橋」を出発してから 2 時間である。「お江戸日本橋」の唄では「こちゃ高輪 夜明けて 提灯消す」とあるが、4 時に出れば 6 時、確かに夜が明ける頃である。この「大木戸跡」だが、国道の東側にある。この広い道路を横断する気にならなかったのでパスする。また、「泉岳寺」には以前に行ったことがあるので、ここもパスして「品川宿」に急いだ。

写真15 高輪大木戸付近(前に見える地下鉄の駅は泉岳寺)

品川宿

「JR 品川駅」をすぎ、少し行ったところで「京浜国道」から右の「八ッ山通り」に入っていく。「旧東海道」は「八ッ山橋」が 新幹線の線路を越えたところで右側に、つまり「京浜急行」の線路に沿って進んでいる。「品川宿案内地図」があり、この先で「京浜急行」の踏切を越えるのだが、ここまでがちと分かりにくい。「八ッ山橋」では右側の歩道を歩くとスムーズだと思う。

写真16 北品川駅の手前の京浜急行踏切を渡る

 線路を越えて進むと「北品川駅」あたりから、雰囲気が変わる。「品川宿」に入ったのだ。町歩きの詳細は次回にして、安藤広重の「東海道五十三次」から「品川宿」(図 6)の様子を見てみよう。

写真17 品川宿
図6 安藤広重 東海道五十三次 品川宿 夜明け (出典 東京富士美術館)

 かなりデフォルメされているが右側の山が「御殿山」であり、その横の道が「旧東海道」。街道のすぐそばまで海が迫っている様子がよく分かる。「御殿山」は北品川一帯の台地。嘉永 6 年(1853)ペリー来航後、江戸防衛のための台場を作る目的で山を切り崩したので平坦になったらしい。

次回は「旧東海道歩き旅第一日」の後編である。「品川宿」を散策したのち、「六郷」で「多摩川」を越えて「川崎宿」に入る。

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