旧東海道歩き旅(2)品川宿~川崎宿(2024.1.4)

 前回の続き、「品川宿」から「川崎宿」まで歩く。

図1 行程

恋の品川女郎衆に 袖ひかれ
のりかけお馬の鈴が森
こちや 大森細工の松茸を

(こちゃえ こちゃえ)

民謡「お江戸日本橋」二番

品川宿

「品川宿」については、『日本大百科全書』の「五街道宿駅一覧」につぎのようにまとめられている。

  • 所在地:武蔵国荏原郡(東京都品川区北品川 1丁目など)
  • 江戸・日本橋からの距離:2 里
  • 宿の規模:家数 1561 軒、本陣 1、脇本陣 2、旅籠屋 93
  • 宿の特徴:東海道第一番目の宿場。北品川宿、歩行 (かち) 新宿、南品川宿に分かれていた。また品川港は天下第一の巨港ともよばれ、海陸とも江戸への入口としてにぎわった。品川女郎を置く旅籠屋も多く、江戸四宿の一つとして栄えた。

 品川区が作成している「品川宿新旧比較図」を図 2, 3 に示す。オレンジの線が「旧東海道」である。距離にして約 2 キロ。北から「歩行(かち)新宿」「北品川宿」「南品川宿」の順に並んでいる。「歩行新宿」と「北品川」の境が「溜屋横丁」、「北品川」と「南品川」の境が「品川橋」である。「南品川」は「長徳寺」のあたりまでで、そこから南は寺の門前町となっている。「歩行新宿」は名前からして新しい。元々は「北」と「南」があり、発展とともに新しい町並みが形成されたようだ。この「歩行」だが、本来宿場は「伝馬」と「歩行人足」を負担するのだが、「歩行人足」だけの負担であっため、この名がついたようだ。「北品川」に本陣、「歩行新宿」と「南品川」に脇本陣が置かれた。「本陣」は大名・公家・幕府役人などの宿泊・休憩施設で一般の武士・庶民は「旅籠屋」(食事つき)や「木賃宿」(薪代を支払い自炊)に宿泊した。「脇本陣」は普段は旅籠屋だが、本陣の利用が重なった場合には本陣の代わりをつとめる宿である。


図3 品川宿新旧比較図 南側(提供 品川区)

 まだ正月とあって店の大半が閉まっている。この付近は空襲で焼けていないため、昔の町並みがある程度残り、情緒がある。ただし、江戸時代のものはさすがになく碑が立っているだけである。北品川駅の近くに「土蔵相模」の碑があった。

写真1 土蔵相模の碑


 説明板には「食売旅籠屋『相模屋』の俗称で、奥座敷が土蔵造りになっていたことから付けられた名称である。万延元年(1860)大老・井伊直弼を襲撃した桜田門外の変の水戸浪士たちや、文久 2 年(1862)英国公使館を焼打ちした高杉晋作・伊藤俊輔(博文)ら長州藩士の集合場所になるなど、幕末の歴史の舞台となった場所」と書かれている。「食売旅籠屋」とあるが、これは「妓楼」つまり遊女屋のことである。冒頭の「お江戸日本橋」でも、「恋の品川女郎衆に 袖ひかれ」とあるように、吉原につぐ色街だったようだ。「相模屋」の建物は昭和初期まであったようだが、今はコンビニが入ったマンションに変貌している。嘉永 3 年 (1850) に西沢一鳳が書いた『皇都午睡』の「品川宿」の項にこの「土蔵相模」が登場する。幕末期のこのあたりの様子がよく分かる。

 品川宿は東海道の喉首なれば、また陽気なる事このうえなし。高輪より茶屋ありて〔案内茶屋なり〕、品川宿の中央に小橋あり、それより上は女郎銭店、橋より下は大店なり。女郎屋はいずれも大きく、浜側の方は掾先より品川沖を見晴らし、はるか向うに上総房州の遠山見えて、夜は白魚を取るかがり火ちらつき、漁船に網あり釣あり、夏は納涼によく絶景なり。女郎は十文目にて雑用は別なり。(中略)女郎屋すこぶる多し。中にも土蔵相摸、大湊屋、抔名高し。岡側の家は後に御殿山をひかえ、浜側は裏に海をひかえ、往来は奥州出羽より江戸を過ぎて京西国へおもむく旅人、下る人は九州・西国・中国・幾内の国々より行く旅人ども、参宮・金びら・大山参り・富士詣・鎌倉・大磯の遊歴やら箱根の湯治、参勤交代の大小名、貴賎を論ぜず通行すれば賑しき事この上なし。表の間は板敷にて玄関構え、片店は勘定場にて泊り衆の大名・旗本衆の名札を張り、中庭・泉水・廊下を架し、琴三味線の音など聞え、道中女郎屋の冠たるべし。名物は鮮魚を主とし、品川海苔・柳鯲・白魚・貝のむき身の類。

西沢一鳳『皇都午睡三編下の巻』品川宿を筆者、現代風表記に変更(元データ:ね太郎「西沢一鳳 皇都午睡 テキスト」

「品川神社」に寄っていこうと思い、「旧東海道」から離れて「京浜急行」「第一京浜」を越えた。「品川神社」は「御殿山」の南にあり、小高い丘の上にある。階段を上る多くの人々が見えた。階段の上は拝殿まで長い行列が続いている。さすがに、東京十社に数えられるだけあって賑やかだ。行列に並ぶとかなり時間がかかりそうなので、今日のところは写真だけとする。主祭神は「天比理乃咩命(アメノヒリノメノミコト)」で「斎部(いんべ)氏」の祖神である「天太玉命(アメノフトダマノミコト)」の后神である。おや、「斎部氏」がこのあたりにいたのか? と由来を見ると、「源頼朝」が安房の「洲崎明神」を勧請したとある。昨年の「千葉県一周の歩き旅」とここで繋がったわけである。

写真2 品川神社の鳥居
写真3 品川神社拝殿

 時刻は 11:30、お昼にしようと店を探すが、開いている店が少ない。宿場町らしきところを探したが開いていないので、結局、鉄板焼のお店でハンバーグをいただいた。この後「品海公園」を抜け、もう一つ浜側にある「八ッ山通」に出る。歩いている時にはまったく分からなかったのだが、この通り図 2 の様に江戸時代には「目黒川」だったようだ。現在、「目黒川」は「品川橋」から直進しているが、昔は橋を過ぎて左に曲がり、この「八ッ山通」を進んで「品川湊」に注いでいた。さらに川向こうにも漁師町があり、その北端には「御殿山下台場」が作られていた。前述のように、この台場を作るために「御殿山」の土が切り出されたとのこと。ペリー来航に衝撃を受けた幕府は江戸内湾防御のために 11 基の台場築造を計画したそうだが、資金不足で実際に作られたのは6基、ここはその一つらしい。

「八ッ山通り」に出た理由は、そこにある「利田(かがた)神社」にお詣りしようと思ったからだ。その裏に「台場小学校」があることは知っていたが、その「台場」が「御殿山下台場」から来ているとは知らなかった。そもそも「台場」の存在すら知らなかったのだから。

「利田神社」は「しながわ観光協会」のホームページによれば、「旧目黒川の河口の海に突き出た砂洲に祀られていた弁天社で、江戸名所図会や歌川広重の浮世絵にも描かれている」らしい、明治になってこの辺りの開発に尽力した利田利兵衛の姓をとって「利田神社」となったとのこと。その境内に「鯨塚」があり、これは寛政 10 年(1798)に品川沖に現れた大鯨(体長約 16.5 メートル、高さ約 2 メートル)の骨を埋めた供養塔だ。こぢんまりしていて目立たない神社なので訪れる人は少ないようだ。

写真4 利田神社

 そこから「南品川猟師町」の「寄木(よりき)神社」に向かう。こちらは慶長年間(1598~1614)の創建、江戸名所図会にも描かれてる漁師町の鎮守である。この神社の本殿は蔵になっていて、その扉に描かれた「鏝絵天鈿女命功績図」が有名だ。

写真5 寄木神社

 お詣りを済ませたあと、お賽銭箱の前から奥を覗うと土蔵の入り口らしきところに、なにか描かれている。望遠にしてカメラを向けシャッターを押した。上手く写っているとは思わなかったが、「鏝絵天鈿女命功績図」が撮れていた。ピントが中央にあっているようで少しぼけているが上出来である。これは名工「伊豆長八」による漆喰鏝(こて)絵、つまりコテで描いた絵だ。天岩戸ご開帳を描いている。左扉上部が「天照大神(アマテラスオオミノカミ)」、その下に「天鈿女命(アメノウズメノミコト)、右扉には「猿田彦命(サルタヒコノミコト)」が描かれている。祭神はもちろん「天照大神」。

写真6 鏝絵天鈿女命功績図

「旧東海道」に戻り南下を続ける。「目黒川」にかかる「品川橋」を渡る。振り返って撮った写真が写真 7 で、左手の赤い橋の先が「荏原神社」である。この先「南品川宿」に入る。

写真7 目黒川と品川橋

「青物横丁駅」へ向かう通りを越えて少し進んだ右側に「品川寺(ほんせんじ)」がある。『東海道名所図会』(1797)では、「海照山品川寺普門院という。開基は弘法大師。年久しく廃して草堂なりしを、法印権大僧都弘尊中興す。本尊正観音 閻浮檀金の立像なり。大師もろこしより帰朝の時、竜宮より感得したまい、東関をしらしめ、これをまもりてとどむることをおしゆる方便なり。門の左のかたには、桜枝をかわし、花さく春の梢より、おちこち風にさそわれて、空にしられぬ雪ふりて、またすてがたき所なり」と書かれるが、門の手前左にある街道を歩く人の安全を祈願して建てられた「江戸六地蔵の一」については記載がない。寺は大同年間(806~10)の開創と伝えられ、地蔵菩薩は宝永五年(1708)の造立である。

写真8 品川寺
写真9 品川寺地蔵菩薩像

立会川・鈴ヶ森

 時刻は 12:40、「品川宿」でだいぶ時間がかかったので先を急ごう。「東大井」に入る。「品川宿」から南、大森あたりまでの「旧東海道」はずっと海岸沿いの道だったようだ。「品川寺」から歩いて10 分で「立会川」に出る。ここにかかる橋は「浜川橋」だが、通称「涙橋」という。橋の横に説明板が立っている。それによると、この橋が架けられたのは、徳川家康が入府後の 1600 年頃で、現在の橋は昭和 9 年(1934)の架け替え。「涙橋」の由来については、「慶安四年(1651)、品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親族がひそかに見送りにきて、この橋で共に涙を流しながら、別れたということから、『涙橋』と呼ばれるようになりました」と書かれている。冒頭の「お江戸日本橋」の「のりかけお馬の鈴が森」だが、「馬に乗って鈴ヶ森へ」という意味にとれるが、その前の「品川女郎衆に袖ひかれ」とつなげると「のりかけお馬」がぐっと艶っぽい話に変わる。馬と言えば「立会川」の先の海側に現在は「大井競馬場」がある。

写真10 立会川・浜川橋(涙橋)


「立会川」から 10 分歩けば「鈴ヶ森刑場跡」である。「旧東海道」が「第一京浜国道」と出合うすぐ手前だ。かつて京に向かう街道の左側はすぐ海、右側に刑場が作られていた。つまり街道から刑場が見えるのである。長崎の出島から江戸に旅したドイツ人博物学者エンゲルベルト・ケンベルは『江戸参府旅行日記』にその様子をつぎのように記している。

品川の手前には刑場があって、通り過ぎる旅行者はそれを目にして、むかつくような気持ちになる。人間の首や手足を切った胴体が、死んだ家畜の腐肉の間に混じって横たわっていた。やせた大きな犬が飢えて大口を開け、腐った人間の体を食いまわっていた。なおほかに、たくさんの犬やカラスが、食卓が空いたら腹いっぱい食べようと、いつもそばで待っていた。

ケンベル、斉藤 信訳「江戸参府旅行日記」(平凡社東洋文庫303)

 江戸の刑場といえば、この「鈴ヶ森」と「日光街道」沿いの「小塚原」である。なぜ「刑場」を「街道」に面したところに作ったのか? 答えは「見せしめ」のためである。ここを通り江戸に入る者への警告だったのであろう。この刑場では、丸橋忠弥、天一坊、白井神八、八百屋お七、白木屋お駒など、演劇などで知られた者が処刑された。

写真11 鈴ヶ森刑場跡

大森

「鈴ヶ森」から先は「第一京浜」が「旧東海道」になるのだが、この道中は退屈だ。大きな道路には広い歩道がついていて安全ではあるが、何も見るものがない。江戸時代の海岸はすっかり埋め立てられて、「平和島」その先に「大井ふ頭」「城南島」が作られている。

 20 分ほど歩いた「大森本町」で「旧東海道」はいったん「第一京浜」から離れる。「美原通り」を歩き「内川」を越える。

 江戸時代、このあたりは「浅草のり」の産地であった。秋里籬島の『東海道名所図会』では「浅草海苔を取るは、大森より北品川までのなぎさにて秋の彼岸より春のひがんまで取るなり。浅きところは歩行(かち)にて深きは船にてゆき、十町二十町あるは一里も出でて、ヒビという物を海底へ差し込み、満潮につれつれて、海苔これにとどまるなり。寒中に取るを最上とす。至って美味なり」と書かれている。「内川」の河口付近に「大森ふるさとの浜辺公園」が作られ、そのそばにある「大森 海苔のふるさと館」は「海苔のまち大森」の歴史と文化を伝える博物館である。

 もう一つ「大森」の名物は「麦わら細工」であった。文政9年(1826)に長崎から江戸に向かったシーボルトが書いた「江戸参府紀行」に次の様な一節がある。

途中私は藁で作ったきれいな品を売っている商店に気づいた。たいてい子供のオモチャで、ロクロ細工や彫刻やシュロの葉柄で編んだ編物細工であって、ニュルンベルクのオモチャ屋にあるクリスマス用品の小売店そっくりである。

ジーボルト 斉藤 信訳「江戸参府紀行」(平凡社『東洋文庫』87)

 さて、冒頭「お江戸日本橋」の 2 番の歌詞にある「大森細工の松茸」であるが、これは「子供のオモチャ」ならぬ「大人のオモチャ」だったようだ(こちゃえー、こちゃえー)。

「旧東海道」は「第一京浜」と「羽田」へ向かう「国道134号」の分岐点に出る。ここから再び「第一京浜」を歩く事になる。道は内陸へ入っていく。

梅屋敷・蒲田

「品川」以来、道路の右手には必ず「京浜急行」が走っている。だから、途中で挫折してもこれに乗って家に帰れるわけで安心感がある。このあたりの「京急」は高架で立派な防音壁が施されている。

「梅屋敷駅入口」の交差点までやってきた。この先、右手に「聖蹟蒲田梅屋敷公園」がある。ここは、文政年間(1818~1830)の始めに、「和中散」売薬所と梅の木数百本を植えた「梅屋敷」という名の「休み茶屋」が開かれ、梅の名所として広重の浮世絵にも描かれたところで、幕末期にはここで志士が密議を凝らし、横浜異人館焼き討ちを計画した高杉晋作らを山内容堂が慰撫した場所としても知られている。文久 2 年(1862)にイギリスの駐日公使館の通訳生として来日し、駐日公使、駐清公使を務めアーネスト・サトウの回顧記にもこの「梅屋敷」が登場する。

川から数マイル進むと、有名な梅屋敷という梅園にたどり着き、そこでかわいらしい少女たちのもてなしを 受けた。多少なりとも自己愛を持ち合わせた者であれば、東海道を旅する際は、梅の季節であってもそうでなくてもここに立ち寄り、麦わら色の茶を飲んでパイプを吸いながら、女中と談笑したいという欲求に抗えないのである。 そこでは、さまざまな方法で調理された魚料理や、温かい酒(米のビールのこと)を頼むこともでき、顔を赤くした現地の紳士たちが、心地いい午後のひとときを過ごしたあと、身をかがめて乗り物に入る姿もよく見かけた。

アーネスト・メイスン・サトウ(鈴木悠訳)「一外交官の見た明治維新」 (講談社学術文庫) 講談社

 現在は写真のような状態で、梅も少なくすっかりさびれてしまっている。もちろん「かわいらしい少女たち」もいない。

図3 蒲田の梅園 歌川広重, 1857年, 廣重名所江戸百景
写真12 聖蹟蒲田梅屋敷公園

「京浜急行蒲田駅」は写真 13 のようにホームが二階建てになっている。「羽田」からの線が加わるためで、線路を横に拡げるのではなく縦に拡げて、占有面積を狭めているのだ。

写真13 京浜急行蒲田駅

六郷・多摩川

「蒲田駅」を過ぎ、「第一京浜」を歩き続ける。約 30 分で左側に「六郷神社」がある。この神社は江戸時代には「八幡宮」と称していた。このあたりを「六郷」と呼ぶが、神社の氏子の地域が六か郷に及んだことからついた地名だという。祭神は「八幡宮」なので「応神天皇」である。私は道の反対側を歩いていたので、広い道路を横断する気にならず通り過ぎた。

「多摩川」にかかる「六郷橋」が見えてくる。橋の手前で片側 2 車線道路からさらに道路が分岐する。中央の道路は橋に向かい、分岐道は川の堤防へと向かうのだ。歩道橋があるようなのだが、どこから上がるのだろう? 地図を確認すると左の分岐道に入っていった方がよさそうだ。結局、信号のところで「第一京浜」を横断することとなった。

 分岐道を進むと案の定、川の手前に階段があった。「六郷橋」を渡る。

写真14 六郷橋の歩道に上がる階段
写真15 六郷橋から多摩川を臨む

「東海道名所図会」によれば、昔は橋があり、武蔵国三大橋のひとつとなっていたが、たびたび洪水で流されたため、元禄期より船渡しとなったようだ。

 長い河川敷をすぎ、川が現れる。その中央が「東京都大田区」と「神奈川県川崎市」の境である。時刻は14:47、「川崎市」に入った。

写真16 神奈川県川崎市に入る

川崎宿

「六郷橋」を渡るとすぐに右に入る道がある。ここで「旧東海道」はやっと「第一京浜」から離れるのだ。さあ、「川崎宿」だ。すぐ「川崎宿」の表示が出た。もう少し「旧東海道」を歩いて、15:03 に「京浜急行川崎駅」にゴールした。「日本橋」からの歩行距離は 23.9 キロ、「旧東海道」の宿場間の距離は「日本橋」~「品川宿」が 7.8 キロ、「品川宿」~「川崎宿」が 9.8 キロ、合計 17.6 キロなので超過分 6.3 キロが各所で歩きまわった距離である。時間にして 6 時間 24 分だった。「川崎宿」の詳細は次回に回そう。

写真17 川崎宿に入る

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