「旧東海道歩き旅(3 , 4)」からの続きである。ここでは「保土ケ谷宿」から「戸塚宿」までの道中について書こう。なお「戸塚宿」では「JR 戸塚駅」にゴールした。


保土ケ谷宿
『日本大百科全書』の「五街道宿駅一覧」の記述はつぎの通り。
- 所在地:武蔵国橘樹郡(神奈川県横浜市保土ケ谷区保土ケ谷町 1 丁目など)
- 江戸・日本橋からの距:8 里 9 町
- 宿の規模:家数 558 軒、本陣 1、脇本陣 3、旅籠屋 67
- 宿の特徴:三浦半島の金沢などへ通ずる金沢 (かねさわ) 道に分かれる。
「保土ケ谷宿」は「岩間町」「帷子町」「保土ケ谷町」の宿場が一緒になってできた宿場町で、その長さは「品川宿」と同じ 2 キロだが、家数はその 1/3 程度、旅籠屋の数は 2/3 程度である。「日本橋」を出発して女・老人など足弱の者はここに宿をとったという。地図を図 3 に示すが、本陣、脇本陣などメインの施設は「保土ケ谷町」にある。

「ハマのアメ横」商店街が続く。地名は「横浜市保土ケ谷区天王町」だ。道の右側に「橘樹(たちばな)神社」の鳥居が現れる。創建は鎌倉時代初期(1186 年)で、江戸時代には「牛頭(ごず)天王社」と称していて、大正時代に現在の「橘樹神社」となったようだ。「天王町」の名前はこの「天王社」から来ているらしい。「牛頭天王」というのは京都の「八坂神社(祇園社ともいう)」の祭神であり、「素戔嗚尊 (スサノオノミコト)」 の化身とされる。だから祭神は「素戔嗚尊」だ。


神社から進むと「帷子(かたびら)川」に出る。現在は横浜港に注いでいるが、江戸時代には入江がこのあたりまで入りこんでいて、そこに「帷子川」の河口があったようだ。この町はその河口に栄えた町だったのである。「帷子川」には 2003 年にアゴヒゲアザラシの「タマちゃん」が出現。最初の発見場所の「多摩川」から「鶴見川」へと移り「帷子川」まで泳いできて居座ったらしい(私が歩いてきたコースと同じだ!)。写真 3 の護岸の上、水鳥がいるところで寝そべっていた姿が撮影されている。

「帷子橋」を渡った正面が「相模鉄道 天王町駅」である。

冒頭の広重の「保土ケ谷宿 帷子橋」の絵、描かれている川が「帷子川」、橋が「帷子橋」で、江戸方向からの眺めらしい。ただし、川筋がその頃とは変わってしまっている。駅の向こうに「天王町駅前公園」があるが、そのあたりに「帷子橋」があったらしく、説明板が立っていた。広重の絵は、橋の手前から現在の「保土ケ谷駅」の方向を見たものだと推定されている。

「岩間町」「帷子町」と歩く。道の右側にはお寺がたくさんある。「高札場跡」を過ぎ「金沢横町」の標識のところ、道標が 4 つ置かれていた。

うしろの説明板には「この地は、旧東海道の東側で、金沢・浦賀往還への出入口にあたり、 通称『金沢横町』と呼ばれました。金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、道標として四基が建立され、現在残っています」と書かれている。道標は右側から、「円海山之道」「かなさわ、かまくら道」「杉田道」「富岡山芋大明神社の道」だ。
ここで「旧東海道」は「JR 横須賀線」の踏切と出合い、線路を越した先で西に折れ曲がる。どうしてだろうと地図を見ると、正面に台地がある。2 つの台地の間を「帷子川」の支流の「今井川」が流れていて、その谷間の道が「旧東海道」なのだ。この谷が「保土ケ谷」の名前の由来である。「保土ケ谷」は「程谷」とも書く。はじめの「ホド」は、一説によると「ホト」と同じで、女性器を意味するという。つまり谷の形が女性器に似ているというので「ホドヶ谷」。地名はなかなか面白い。
この曲がり角に「本陣跡」があった。本陣は小田原北条氏の家臣「苅部豊前守康則」の子孫がつとめたらしい。荒れ果てた家という感じだが、歴史ある建物で当時の門や土蔵がまだ残っている。この先には道の両側に三軒の「脇本陣」があったらしい。このあたりが「保土ケ谷宿」の中心だろう。

すぐ「上方見附」である。その説明板と復元された「一里塚」が川の北側に立っていた。川沿いに松が植えられているが、これは江戸時代の状況を再現したものとのこと。


川を渡ると「外川神社」がある。祭神は「日本武尊」。このあたりが「保土ケ谷宿」の終点だ。

川沿いに歩いて行って「元町橋」を渡ると、その先に「権太坂」の道標が出た。さて、これからが「旧東海道」の最初の難所「権太坂」なのだ。

権太坂・境木地蔵尊
ここから「境木地蔵尊」まで 1.5 キロ坂道が続いている。上がり口の様子は写真 12。そんなに急勾配というわけでもない。道路改修のおかげで昔ほど難所ではなくなったらしいが、坂道の距離が長いのでだんだん疲れてくる。途中に「広陵高校」があり、学生たちは毎日この坂を上っているわけだ。その先は住宅街で綺麗な家が整然と並んでいる。車がないと結構たいへんだろうと余計な心配をする。「権太坂」の名前の由来としては、旅人が老人に坂の名前を尋ねたところ、自分の名前を聞かれたと思い「権太じゃ」と答えたという説と、藤田権左衛門という開発者の名前から「権左坂」と呼ばれていたものが転じたという説があるそうだ。

道は T 字路に差し掛かる。前は「境木中学校」だ。ここで右折、「境木小学校」の前を進むとすぐ「境木地蔵尊」の前に出た。「権太坂」はここまで、そしてここが「武蔵国」と「相模国」の「境」となる。上り始めて23分、この位なら特にどうということもない。

「境木」は「権太坂」を登りきった所にあり、ここには茶店があってたいへん賑わっていたそうである。ここの名産は「牡丹餅」である。この「地蔵尊」にまつわる言い伝えにつぎのようなものがある。いつの頃かはわからないが、相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕にたち「俺は江戸の方へ行きたい。運んでくれたらこの海を守ろう」と告げたので、漁師達が江戸へ運ぶ途中、この境木で動かなくなった。そこで、村人達は地蔵を引き取り、お堂を建てて安置したところ、それからは村が繁昌したらしい。昔、茶店があった「立場(馬子や人足のための休憩所)」の跡は、現在写真のような状況。西に富士、東に江戸湾が見えたそうなのだが、今は建物がいっぱいで見晴らせなくなっている。

焼餅坂・品濃坂
「境木地蔵尊」の向かい側に「旧東海道」の下り坂がある。上ってきた分、今度は下ることになるのだが、この坂の別名が「焼餅坂」。このあたりに茶屋が並んでいて焼き餅を売っていたことに由来するという。松並木が並んでいて、多少東海道っぽい。そこを下りると「品濃一里塚の碑」。一つ前の一里塚は「外川神社」の手前、あそこから一里歩いたことになる。このあたりが「品濃坂(信濃坂)」だ。


この先で通りを横断し正面の細い道に行くところ、私は道を間違えて右折して「環状 2 号線」に出てしまった。地図を見ると「旧東海道」はこの「環状 2 号線」を渡った先へと進んでいるようだ。前方に歩道橋が見えた。これを使って向こうへ渡ればよい。ところが、その歩道橋への上がり口が「環状 2 号線」にない。仕方がないので、少し戻って、左側の団地の中へ入り坂を上がっていくと、なんということだろう、そこに「品濃坂上」の道標があるではないか! そして「旧東海道」の矢印があった。この先の「旧東海道」は、右上に見えている「歩道橋」である。



この歩道橋上での時刻が 14:22、「戸塚宿」の入口である「江戸見附」に到着するのが 15:10、平地歩きだが疲れた足にはこの 50 分がかなり堪えた。それにしても、江戸時代の人は「戸塚宿」に最初の宿をとったという。距離にしてなんと 40 キロ! そこを私は 2 日に分けて歩いているのだ。この道中、特に見所はない。道は「国道一号線」と合流するが、その北側は「ヤマザキ製パン」「森紙業」「ポーラ化成」「ブリヂストン」などの工場がズラリと並んでいる。まさに一大産業都市の中を歩くのである。「ブリヂストン」の隣が「イオンモール」になっていて、その前に「戸塚宿」の「江戸見附跡」があった。これで「戸塚宿」に入ったことになる。

さて、この先、私は「戸塚駅」まで「戸塚宿」の中を歩くのだが、その詳細は次回にしょう。この日は「川崎宿」を出発して「戸塚駅」まで 27.2 キロ、時間 7:55 だった。「川崎宿」~「神奈川宿」が 9.7 キロ、「神奈川宿」~「保土ケ谷宿」が 4.9 キロ、「保土ケ谷宿」~「戸塚宿」が 8.8 キロだから合計 23.4 キロ、追加の 3.8 キロがそれぞれの地点で歩きまわった距離である。

