2024 年 1 月 30・31 日と 1 泊 2 日で「戸塚宿」から「小田原宿」まで歩いた。今回は 1 日目の前半「戸塚宿」から「藤沢宿」までの道中である。

痴話で口説は信濃坂 戸塚まえ
藤沢寺の門前で
コチャ とどめし車そ綱でひく(こちゃえー こちゃえー)
ずっと掲載している「お江戸日本橋」の唄だが、これが 4 番の歌詞。「痴話で口説は信濃坂 戸塚まえ 」、前回書いた「品濃坂(信濃坂)」が出てくる。「品濃坂」には何軒か水茶屋があったそうで、そこの若い娘を口説くのである。なにを口説いているのかはご想像におまかせする。「戸塚まえ」が、なぜか「とっ捕まえ」と聞こえてくる。

戸塚宿
- 所在地:相模 (さがみ) 国鎌倉郡(神奈川県横浜市戸塚区戸塚町)
- 江戸・日本橋からの距離:10 里 18 町
- 宿の規模:長さ:2.3 km、家数 613 軒、本陣 2、脇本陣 3、旅籠屋 75
- 宿の特徴:相模国に入っての第一番目の宿場。ここから鎌倉道を通って鎌倉まで約 2 里。
「横浜宿」ほどではないが、「江戸見附」から「上方見附」間の距離が 2.3 キロと長い。旅籠屋の数も「品川宿」に次ぐ。江戸時代、「日本橋」を朝出発した多くの人が最初に泊まったのがこの「戸塚宿」だ。だから、規模が大きな宿場町となったのであろう。
図 3 が「戸塚宿」の地図である。前回書いたように現在、ブリヂストン横浜工場の隣のイオンモールの前に「江戸見附跡」の碑があり、ここが入口。「本陣」や「問屋場」の並ぶ現在の「戸塚駅」のあたりが中心部、「富塚八幡宮」の先の「上方見附」が出口となる。

今回は 8:50 に「戸塚駅」をスタートし、前回の続きから「歩き旅」を開始した。まずは前回書いていない「大橋」のところから道中記を始めよう。
図 2 の「広重」の絵の場所が「大橋」である。橋のたもと、燈籠の横に「左り かまくらみち」と書かれた道標があり、道の手前には「こめや」という茶店がある。この「こめや」は、米で作った餅菓子が有名で、宿屋もかねていたようだ。現在の状況は写真 1 と 2 で何も残っていない。「道標」は近くの「妙秀寺」に移されて保存されているそうだが、図 2 のものとは異なるらしい。「広重」は現物とは別の道標を描いたらしく、再刻販では訂正されたとのこと。


このあと「旧東海道」は JR の線路を越えるが、ここは立派な歩道橋になっている。その先の右側に「清源院」がある。ここは浄土宗のお寺で、徳川家康の側室「お万の方」ゆかりの寺である。問題はこの「お万の方」だ。千葉県「勝浦」の「八幡岬」に「お万の像」がある。この人は「徳川頼宣」「徳川頼房」の母の「養珠院」。もう一人「結城秀康」の母の「長勝院」も「お万の方」。この人は NHK の大河ドラマ「どうする家康」で松井玲奈さんが演じていた。では、戸塚の「お万の方」はというと、これらのいずれでもない。第三の「お万の方」がいたのだ。徳川家康は正妻の他に 16 ~ 20 人をこえる側室がいたといわれる。この「清源院」と呼ばれる「お万の方」もその一人だが、子供がなかったので無名なのだろう。


「戸塚宿」には本陣が 2 つあった。そのうちの一つ「内田本陣」は現在、道路側に道標が立っているのみだが、もう一つの「澤邊本陣」は石の階段部分が残っていた。本陣創設時の当主、澤邊宗三は「戸塚宿」開設の功労者だったらしい。

この先、右側に「八坂神社」がある。「戸塚宿」の鎮守で、元亀 3 年(1572) 年に、前回でてきた天王町の「橘樹神社」と同様、「牛頭(ごず)天王社」を勧請したのが始まりとのこと。だから、「お天王さま」といわれる。祭神は「須佐之男命」と「奇稲田稲命」。

「上方見附」の手前に「富塚八幡宮」がある。「戸塚」の名前はこの「富塚」から来ているらしい。いかにも歴史のありそうな神社である。鳥居の向こうに上り階段があり、その上に社殿が見えている。後はもっこりとした山。この山は古墳らしい。


境内の説明板にはつぎのような由来が書かれている。
平安時代、前九年の役平定のため源頼義・義家が奥州に下る途中、この地にて応神天皇と富属彦命の御神託を蒙り、其の加護により戦功を立てる事が出来たのに感謝をして、延久四年(西暦一〇七二年)社殿を造り両祭神をお祀りしました。
社殿後方の地は富属彦命の古墳であり、これを富塚と称した事により戸塚の地名が発祥したと伝えられています。
戸塚(富塚)一族は昔この地に住み、当神社を氏神として崇敬しておりました。現在全国に散らばる戸塚姓富塚姓の方々の守護神でもあります。
現在の本殿は天保十四年、拝殿は昭和九年の造営になります。
明治六年には其の由緒を以って戸塚・泉・瀬谷・栄区唯一の郷社(近郷を鎮守する神社)に列せられました。
重要な情報が書かれている。まず、ここは全国の「戸塚」「富塚」姓の人達のルーツだということ。その「富塚」は「富属彦命(トツギヒコノミコト)」の古墳(塚)から来ていることだ。もう少し詳しく調べてみよう。
- 「富属彦命」について、『戸塚郷土史』には、「相模国造(さがむのくにのみやつこ)弟武彦命(オトタケヒコノミコト)の二世の孫で、県主または稲置といわれ」と書かれている。
- この「相模国造弟武彦命」は「茅武彦」ともいわれ、大化の改新以前に神奈川県東部を支配していた初代国造で、『先代旧事本紀』巻 10 に収められる「国造本紀」には、「天穂日命(アメノホヒノミコト)」を祖とし、「武刺・元邪志(武蔵)国造」である「兄多毛比命(エタモヒノミコト)」の祖の「神伊勢都彦命(カムイセツヒコノミコト)」の三世孫であるとされ、同族に「菊麻」(千葉県市原市)・「波伯」(鳥取県倉吉市)・「大嶋」(山口県大島郡周防大島町)の国造がおり、さらに「上海上」(千葉県市原市)、「下海上」(千葉県銚子市・旭市・香取市)、「千葉」(千葉市)国造も同族である可能性が高い。
- 「武蔵国造」「相模国造」の祖の「伊勢都彦命」は『伊勢国風土記逸文』によれば、「神武東征」に際して、これに服属せずに東国に去ったとされている。
- その祖の「天穂日命」は「天照大神」と「スサノオ」が誓約をしたときに生まれた 5 男 3 女神のうちの第 2 子。葦原中国平定のために「大国主神」の元に遣わされたが、「大国主神」に心服して 3 年間高天原に戻らなかったとされる。その子は「天夷鳥命(アメノヒナドリノミコト)=建比良鳥命(タケヒラトリノミコト)」。「伊勢都彦命」はその次男。また、長男の系列からは「出雲国造宇迦都久怒(ウカツクヌ)」(天穂日命の 11 世孫)が出ていることから、「出雲氏」の祖となる。
- 「相模国造」の氏神は「相模国一宮」の「寒川神社」で、神社のホームページには「寒川比古命(さむかわひこのみこと)と寒川比女命(さむかわひめのみこと)のニ柱の神を祀り、寒川大明神と奉称しています。寒川大明神は相模國を中心に広く関東地方をご開拓になられ、衣食住など人間生活の根源を開発指導され、関東地方文化の生みの親神様として敬仰されてきました」とある。
このように調べていくと、なんと「東海道歩き旅」が昨年の「千葉県ぐるっとウォーキング」と繋がったではないか! 最終回の「五井駅~姉ヶ崎駅」で主に書いたのは「上海上国造」の古墳群と神社だった。今回歩いている「相模国」と私の住んでいる市原市の「上海上国」は古代において同族だったのだ。さらに、今回歩いていて「寒川神社」の看板をよくみかけたが、千葉にも「寒川神社」があるのである(第 29 回)。相模の本家から分祀したものらしいが、千葉の神社も「式内社」で平安時代以前にさかのぼる古いものだ。千葉の国造も同族なら分祀の理由もわかる。この「寒川大明神」が誰なのかが不明であり、一説では「相模国造茅武彦」とされるが、「千葉」のケースも考えるとこの氏族のもう少し祖先なのかもしれない。
だいぶ時間を取られたが「戸塚宿」を抜ける。
大坂・原宿
歩いている「一号線」は 2 車線道路で、そばにバイパス「戸塚道路」が走っている。「大坂」の先で「一号線」はバイパスと合流し、広い 4 車線道路となる。この「大坂」だが、江戸時代には松林になっていて富士山がよく見えたのだそうだ。「大坂松並木」の碑が立っていた。残念ながらここでは富士山の存在に気づかなかった。「環状 3 号線」への分岐を過ぎた先に「お軽勘平戸塚山中の道行きの場の碑」があった。ここは昔は山の中、歌舞伎出有名な「お軽・勘平」の二人が松陰で足を休めたところ。現在、老人ホームの建物の角に碑がある。

道は「原宿」へと入っていく。「戸塚宿」と「藤沢宿」の中間の高台、昔はここに「宿」が設けられていたらしい。ここで道の向こうにかなり大きな富士山を発見。ただし、建物で邪魔されているので全容は拝めない。この先、道の左側に「原宿乃一里塚」、右側に「浅間神社」がある。2 つのスポットは向かい合っている。4 車線道路なので横断がたいへんだから、どちらか選択することにした。神社は高いところにあるので、ひょっとしたら建物に邪魔されずに富士山が見えるかもしれないと、信号で道路を横断して右側に移動。


富士山は見えたのか? 「浅間神社」の入口が坂になっていたので期待したのだが、周囲に建物が密集していて結局、富士山は見えなかった。残念!
鉄砲宿・遊行寺坂
この先「一号線」は「藤沢バイパス」となるが、その手前の「影取町」で「県道 30 号」と分岐する。この県道が「旧東海道」である。分岐を過ぎてすぐのバス停の名前が「鉄砲宿」。「影取町」といい「鉄砲宿」といい、いわれのある地名だと思っていたら、説明板が出ていた。
鉄砲宿と影取池の昔話
昔々このあたりにいた長者が自分の蔵に住み着いた大蛇を水神様のお使いとして「おはん」と名付け、大層かわいがっていました。ところが長者の家が没落し、大蛇への餌もままならなくなってきまた。それをみた大蛇は長者様に迷惑はかけられないと、近くの池へ去ってゆきましたが、そこには十分な食料が無く、元々大食だった大蛇は空腹に耐えかねると池のほとりを歩く人の影を食べて飢えを凌いでいました。ところが影を食べられた人はだんだん弱ってしまうので、村人はこの池を影取池と呼んで恐れるようになりました。大蛇を退治しようとしたのですが、鉄砲を見ると大蛇は水底深く潜ってしまうので退治できません。村人は一計を案じ鉄砲の上手い猟師に頼み、昔の長者様のように「おはん」と名を呼びました。昔の飼い主が迎えにきたと思いこんだ大蛇は姿を現すと、ついに撃ち殺されてしまいました。いつしか影取池は埋められ影取の名と悲しい 話だけが残されました。この大蛇を撃った猟師が住み着いたところを鉄砲宿と呼ぶようになったといいます。
11:30 に藤沢市に入る。戸塚駅から歩き始めて 2 時間 40 分である。このあたりでお昼ご飯にしようと店を探す。ここまで外食のチェーン店は見かけるが、「旧東海道」らしい店は見つからなかった。「藤沢宿」が近づいてきたので少し雰囲気が違ってきた。「鎌倉釜飯」という看板に引かれて中へ。鮭の釜飯をいただく。
12:00 旅を再開。「藤沢宿」の入口の「江戸見附」まであと少しである。「遊行寺坂」に差し掛かる。この坂を下りたところ右側に「遊行寺」があり、その手前から「藤沢宿」が始まる。

「一里塚」の説明板があった。一里塚には木が植えられている事が多く、榎が一番多いそうだ。この先に「江戸見附」の説明板もある。「東海道分間延絵図」もついており、それを見ると台状の土手が道の両側から突き出ていているのがわかる。これが「見附」の構造らしい。道の反対側の台地の上に「諏訪」と書かれた神社があり、街道から真っ直ぐ上がる階段と鳥居も描かれている。現在は写真 15 の様な状況で階段が二段になっている。



12:17 に「藤沢宿」に入った。その詳細と次の「平塚宿」までの道中は次回にしよう。

