
藤沢宿

前回は「藤沢宿」の「江戸見附」を過ぎたところまで書いた。このすぐ西側が「遊行寺(ゆぎょうじ)」である。「藤沢宿」は北から南に流れる「境川」を挟んで、この「遊行寺」がある東の鎌倉郡大鋸 (だいぎり) 町と西側の高座郡(こうざぐん)大久保町、坂戸町が一緒になってできた宿場町である。その概要はつぎの通り。
- 所在地:相模 (さがみ) 国鎌倉郡・高座郡(神奈川県藤沢市)
- 江戸・日本橋からの距離:12 里 18 町
- 宿の規模:長さ:1.3 km、家数 919 軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠屋 45
- 宿の特徴:時宗総本山無量光院清浄光寺(遊行寺)の門前町として栄え、大山詣・江ノ島詣の基点として賑わう
ここは「東海道」のほか、「大山道」「江の島道」「鎌倉道」「八王子道」「厚木道」と多くの道が集まっていて、まさに交通の要となる場所である。そのため宿場町自体の長さは短いものの、神奈川県下では「小田原宿」「神奈川宿」に次いで家数が多かった。「小田原宿」は城下町だし、「神奈川宿」は大きな湊だったから多いのは当然だが、それに次ぐ賑わいだったのだ。ところが旅籠の数となると、45 軒と「戸塚宿」の 2/3 くらいしかない。「戸塚宿」は江戸から 10 里で、朝、江戸を出発して一日目の宿をとるのに都合が良い位置だったのだ。「藤沢宿」はその隣だから、宿泊需要はそれほど多くなかったのだと思う。
図 3 に「藤沢宿」の地図を示す。「遊行寺」の南にある「大鋸橋(遊行寺橋)」を渡り、西に曲がった先に宿場町が続く。本陣が二つ描かれているが、江戸前期には大久保町の堀内家が本陣を務めていたが、火災などのため西側の「蒔田本陣」に移ったようである。
「藤沢宿」の中心はなんといっても「遊行寺」だろう。その門前町から発展したといっても過言ではない。広重の『東海道五十三次』(図 2)には「江の島一ノ鳥居」から見た姿が描かれている。この「江の島一ノ鳥居」の場所だが、最初「江の島」にあるものと思っていたのだが、実は「大鋸橋(遊行寺橋)」のすぐ隣にあった。だから図 2 は橋の南から「遊行寺」を眺めたものである。また、『東海道名所図会』(図 4)にも「遊行寺」の伽藍の図が掲載されているし、「お江戸日本橋」の 4 番の歌詞「藤沢寺の門前で コチャ とどめし車そ綱でひく」の「藤沢寺」とはこの「遊行寺」のことだ。

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さて、「江戸見附」のすぐ先にある「東門」から境内に入る。「小栗判官の墓 長生院」の矢印がまず眼についたが、それは後回しにして先に進んで本堂にお詣りする。立派なお寺である。「時宗(じしゅう)総本山」とある。あまり馴染みのない宗派なので、もう少し小さな寺院をイメージしていたのだが意外だった。図 5 に現在の境内の配置図を示すが、図 4 の『東海道名所図会』の当時とほとんど変わってない。「楼門」がなくなっているが、明治時代に消失したらしい。現在の本堂(写真 1)は昭和 12 年(1937)に復興されたものらしいが、江戸時代と形は変わらないようだ。

この「時宗」だが、鎌倉時代後期に僧「一遍」が開いた「浄土仏教」の一派だ。今はその名をあまり聞かない。『宗教年鑑 令和 4 年版』のデータをもとに、日本における各宗教の現在の信者数を比較してみよう。
- 全国の宗教信者総数(令和 3 年 12 月 31 日現在):1 億 7956 万人(国民 1 億 2550 万人の約 143 % となるので重複がある)
- 信者の割合:神道系 48.6 %、仏教系 46.4 %、キリスト教系 1.1 %、その他 4.0 %
- 文部科学大臣所轄の仏教系宗教法人信者の構成割合:総数 4667 万人、天台系 5.9 %、真言系 11.5 %、浄土系 47.1 %、禅系 11.3 %、日蓮系 22.6%、奈良仏教系 1.5%、その他 0.01%
- 浄土系 47.1 %のうち主な宗派の割合:浄土宗 12.9 %、浄土真宗本願寺派 16.7 %、浄土真宗大谷派 15.6 %、時宗 0.2 %
仏教系の中で一番信者が多い「浄土系」では「浄土真宗」がその 69 % を占めており圧倒的。「浄土宗」が 27 % とこれにつぐが、「時宗」はわずか 0.4 % だ。全国に 411 ヵ寺あり、信者数は約 8 万 2000 人程度だそうである。これらの浄土系宗派の違いは何か? 興味を持ったので調べてみた(参考:釈 徹宗. 『法然親鸞一遍』新潮社など)。
「阿弥陀仏」を信仰して極楽浄土に往生することを説く教えが「浄土仏教」である。『無量寿経』によれば、「阿弥陀仏」は「四十八の誓願」をたて長期間の修行ののちに仏となったもので、極楽浄土の主である。この「誓願」のうちの第十八願は「一切の生あるものが、至心に信楽(しんぎょう)して私の浄土に生れようと欲し、わずか十声の念仏でも称えたひとを救えないならば、仏とはならない」というもので、これが「浄土仏教」の根拠となっている。仏教にはさまざま経典があり、それらを総合的に扱ったのが平安時代に始まる「天台宗」であるが、鎌倉時代になると、そこから「法華経」「禅」「浄土思想」などの各部を特化・発展させた宗派が生まれる。それぞれ「日蓮宗」「禅宗」「浄土仏教」である。このうち「浄土仏教」では、「法然(1133 ~ 1212)」が他の部分を捨てて「称名念仏」に特化し、「自らの力で悟りを開くことができない者も、口に南無阿弥陀仏と称え、阿弥陀仏にすべてをおまかせすれば、阿弥陀仏の『すべての存在を救う』という誓願の力で必ず浄土に往生して仏と成れる」とする「浄土宗」が生まれた。この思想を「親鸞(1173 ~ 1262)」が受けつぎ、武士や庶民が受け入れやすいように発展させたものが「浄土真宗」である。つまり、「法然」は「信心は称名念仏とともに形成されていく」として「宗教行為の実践」を主軸に置くが、「親鸞」は「信心を『如来よりたまわりたるもの』と表現し」、出家する必要はなく、念仏を唱えるのはもちろんのこと、それを聞くだけでも浄土に往生できるとするのである。
「一遍(1239 ~ 1289)」も「法然思想」からスタートするが、その教えは「南無阿弥陀仏」という「名号」に救いの絶対的な力があり、「すべてを捨てた境地で称名念仏すれば、もはや仏もなく我もなく、すべてが念仏となる」という様に「名号との一体化」を特徴としている。ここから念仏をとなえながら踊ることで法悦の境地を体験する「踊念仏」が生まれたのだろう。この「踊念仏」は盆踊りの元になったと言われている。さらに「一遍」は定住することなく「遊行」を続けたという。「遊行」とは「修行僧が説法教化と自己修行のために諸国を遍歴し修行すること」であり、「一遍」は紙に念仏を描いた札を配る「賦算(ふさん)」を行いながら、北は奥州から南は大隅国まで 16 年にわたり「遊行」を続けた。このため「遊行上人」と呼ばれるのだそうだ。
さて、このお寺だが「四代遊行上人」の「呑海(どんかい)」が正中 2 年(1325)に廃寺を再建して遊行引退後の住まいとしたところ、歴代の上人が遊行引退後に住むようになったものだという。伽藍は 1350 年頃にできあがり、南北朝、室町時代には鎌倉公方足利氏や関東管領上杉氏等の保護を受け、「時宗」の道場として発展し広く知られていたが、火災により焼失していたところを徳川家康が再建したらしい。それ以来、「時宗」は幕府から教団体制の公認と手厚い保護を受けたという。図 3 の地図に「藤沢御殿」の場所が描かれているが、徳川家康はここに休憩・宿泊施設としての「御殿」を作らせ、鎌倉遊覧の基点として使用している。以来、寛政 11 年(1634)まで将軍が使用している。
写真 2 は境内の大銀杏である。これは図 4 の『東海道名所図会』にも描かれている。駐車場の横には「敵味方供養塔」(写真 3)がある。鎌倉公方足利持氏(もちうじ)に対しその補佐役のはずの関東管領上杉氏憲(うじのり)(禅秀)が起こした乱(上杉禅秀の乱)で戦死した敵・味方を供養するために 応永 25 年(1418)に造立されたものだという。


つぎに「小栗判官」と「照手姫」の墓があるという「長生院(ちょうしょういん)」に行ってみよう。「小栗判官」という名前は聞いたことがあったが、その伝説については全く知らなかった。「東海道名所図会」によれば、つぎのような物語である。
将軍足利義量の時、応永三十年(1423)の春、常陸国の住人の小栗孫太郎満重(みつしげ)が謀反を起こしたとの噂が立ち、鎌倉管領の指図に従わなかった。左兵衛督(さひょうえのかみ)の源持氏(もちうじ)(足利持氏)が彼を討ち取るために、鎌倉を出陣して結城に到り、八月二日から小栗の城を攻めた。小栗側も兵を出して防戦するが、鎌倉側が新しい兵を投入し激しく攻めたので防戦むなしく、小栗は城を捨てて逃亡した。後の情報では遠州にいるらしい。
その子の小栗小次郎は関東に潜伏していたが、ある時、相模の権現堂(ごんげんどう)という所に泊まった。その辺りの強盗たちの集まりで宿の主人が「今夜泊めた浪人は常陸の裕福な人らしい。財宝もたくさん身につけていて、家来も十人くらいだ。どうしようか?」という。賊の一人が「討ち入って奪い取るのもたやすいが、物音が立つので毒の入った酒を飲ませて一気に殺してしまおう」という。こうい次第で、悪計を用意し、小栗にご馳走するといってもてなし、周辺の宿の遊女を集めて酒宴を開いた。勺に立った照手(てるて)という遊女は、最近小栗と何回か会っていたので、心配して毒酒のことをこっそりと教えた。小栗は了解して飲むふりをして飲まなかった。家来たちはそうとは知らず、酔って寝てしまう。小栗はちょっと出てくるという風に装って、近くの林の中で隠れて様子を窺うと、鹿毛の(茶色い)馬が繋がれているのを発見。賊が往来の武士の馬を盗んで連れてきたものの、荒馬でいうことをきかないので、仕方なくこの林の中に繋ぎ置いたものだった。
小栗小次郎は有名な馬の達人だったので、こっそりと財宝を持ってこの馬にまたがり、鞭をうってあっという間に藤沢道場(遊行寺)に逃れ、助けてほしいと上人に頼むと、哀れに思った上人は彼をしばらく寺に隠した後、遠州に送った。また、毒酒にやられた十人の家来も、上人が六字の名号(南無阿弥陀仏)を湯に入れて飲ませると、熊野権現の力でみんな蘇生して、盗賊達を探し出して殺した。
その後、永享(1429~41)の頃、小栗が遠州からやって来て、照手を尋ね当て多くの財宝を与え、遠州へ連れて帰った。世に照姫というのはこの遊女照手のことである。
東海道名所図会より筆者現代語訳



「長生院」の建物の裏に、「小栗判官と十勇士の墓」、「照手姫の墓」、そして「名馬鬼鹿毛の墓」がある。さきほどの物語だと、どうして「遊行寺」にこれらの墓があるのか分からない。不思議に思って調べると「藤沢市教育文化センターのホームページ」に後日談が書かれていた。「照手姫は、美濃の青墓(現岐阜県大垣市)で下女として働いている時、満重(小次郎)に救い出され、二人はようやく夫婦になれた。満重が亡くなると弟の助重が領地を継ぎ、鎌倉に着た折に、遊行寺に参り、満重と家来の墓を建てた。照手姫も仏門にはいり、遊行寺内に草庵を営んだが、永享元年(1429)長生院を建てた。以上が長生院につたわる伝説である」。なお、「小栗判官」の「判官」とは、律令制における四等官の第三位の官であり、小栗はこの位を授かっていたのだろう。
「長生院」を出て本堂前に戻り、「いろは坂」を下ると「惣門」に出る。こちらが「遊行寺」の表玄関である。更に進むと赤い欄干の橋がかかっている。これが「大鋸橋(遊行寺橋)」で、突きあたり右側が「旧東海道」、左側が「江の島道」である。昔はこの橋の左手に「江の島一ノ鳥居」があったのである。

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橋の先、旧東海道は昔の面影はほとんどないが、「桔梗屋」は往時を偲ばせる建物である(写真 8)。「紙」という看板がかかっているように、藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家であり、店蔵及び江戸時代末期の文庫蔵を含む3棟が国の有形文化財の登録を受けている。

この先、「蒔田本陣」の前を通るが説明板が立っているだけだった。さらに進むと「伝義経首洗い井戸」という表示があった。右折して立ち寄ってみる。
住宅の隣に石碑があり、「源義経(鎌倉幕府の将軍源頼朝の弟)は、頼朝に追われ奥州(東北地方)に逃げていましたが、1189 年に衣川(岩手県奥州市)で自害しました。腰越 (鎌倉市)で首実検の後に浜に捨てられた義経の首は、潮にのって川をさかのぼり、里人に拾われてこの井戸で清められたと伝えられています」と説明がある。北側にある「白旗神社」は祭神として義経を祀っているらしい。立ち寄ろうかと思ったが、ちょっと離れているので先を急ぐことにした。

「藤沢本町駅」の先に「京見附跡」の看板があるはずなのだが発見できないまま、いつの間にか「藤沢宿」を過ぎていた。
茅ヶ崎へ
「引地橋」を渡り、メルシャンの工場の前を過ぎる。更に進むと、「国道一号線」と合流する。信号を渡った左に「大山の一ノ鳥居」があった(写真 10)。左手の道路が「国道 1 号線」、右が「大山道」である。角には不動明王が上に載った道標がある(写真 11)。伊勢原市にある「大山」は相模国随一の霊山で修験者の行場だった。別名を雨降 (あふり) 山ともいい、農民の間では雨乞いの対象、漁民の間では大漁祈願の対象だったという。「阿夫利神社」の名はここからきている。江戸時代には「大山講」が結成され、大山詣りが人気となった。伊勢原市のホームページよれば、「大山詣りは、鳶などの職人たちが巨大な木太刀(きだち)を江戸から担いで運び、滝で身を清めてから奉納と山頂を目指すといった、他に例をみない庶民参拝である。そうした姿は歌舞伎や浮世絵にとりあげられ、また手形が不要な小旅行であったことから人々の興味関心を呼び起こし、江戸の人口が 100 万人の頃、年間 20 万人もの参拝者が訪れた」とある。「大山街道」は何通りもあるが、この「田村通り大山道」は特に重要な道だったようだ。ここから「阿夫利神社」までは 27 キロある。大きな木太刀をかついで長距離を歩くとは江戸時代の人々の体力には恐れ入る。


「四ッ谷の一里塚」を過ぎて、「茅ヶ崎市」に入る。道路の両側が松が並んでいる。ここの地名は「赤松町」だ。「旧東海道」は砂堆列にできた海沿いの道だったのだろう。

平塚までずっと「国道 1 号線」を歩く。結構距離が長く、途中にあまり見所がないので単調である。地図を見ると少し北に「鶴嶺八幡宮」がある。昨年の「千葉県一周歩き旅」で富津の「鶴峯八幡神社」にお詣りしたとき、「関東三鶴八幡」というのがあることを知った。「三鶴」の筆頭は鎌倉の「鶴岡八幡宮」で、次が館山の「鶴谷八幡宮」。この二つまでは確実で、もう一つの「鶴」には諸説あるようなのだ。私が住んでいる市原市にも「鶴峯八幡宮」があり、こちらが「三鶴」だという説もある。そこに相模の「鶴嶺八幡宮」だ。ここも「三鶴」の候補ではないか! という具合で、立ち寄ってみることにした。
大きな「一ノ鳥居」をくぐると石の太鼓橋があり、その向こうに「二ノ鳥居」、そして参道が続いている。その先の社殿の右側に立派な「大イチョウ」がある。今はすっかり冬枯れ状態だが、黄葉するとさぞや見応えがあるだろうと思った。



祭神は「応神天皇」「仁徳天皇」「佐塚大神」となっているが、そもそもは「八幡宮」なので「応神天皇」で他は後で合祀されたものである。神社のホームページには、「長元三年九月(1030 年)、源頼義は下総の乱を鎮定するため懐島郷(現地)に至り、源家の守護神石清水八幡宮を勧請して戦勝祈願をしました(別に宇佐八幡宮勧請説もあります)。永承六年(1051 年)前九年の役(安倍一族の反乱)が起こり、陸奥守となった頼義の応援に向かった長子、源義家が懐島郷に入り戦勝祈願をしました。前九年の役が終わった康平六年(1063 年)、頼義は鎌倉由比郷に鶴岡八幡宮の前身である『元八幡』を建立し、当八幡宮はその旧社であることから『本社八幡宮』といわれました」とある。一方、境内の説明板には「康平年間(1058 ~ 1065)源頼義が東征の際、石清水八幡宮にならい、本郡懐島郷矢畑村本社に一社を創立し、後に源家が現地に奉還したと云う。更に治承年間(1177 ~ 1180)に源頼朝が鎌倉由比郷に遷したが、その旧社は存続し本社八幡と称したものと伝えられている」とあり、少し違っている。いずれにしても、「鶴岡八幡宮」の元の元の神社という位置づけである。なお、この場所はかつて「浜之郷」と呼ばれていたところであり、「懐島(ふところじま)」との関係がよく分からなかったのだが、『日本歴史地名体系』によれば、「懐島郷」は、相模川がつくった中洲の一帯を称しており、神社のある「浜之郷」もここに含まれるようである。なお、この場所は室町末期に作られた「東国紀行」に、「相模川の舟渡し行けば大いなる原あり、砥上ヶ原とぞ。この原のあたりに見えたる神社あり。問へば八幡勧請の一とぞ」と紹介されている。相模川の中洲のイメージがよくでている。
再び「旧東海道」に戻って西進すると、「相模川」にかかる「馬入(ばにゅう)橋」に出る。かつて源頼朝はこの橋の落成式に出席後、辻堂の辺りで落馬したといういわくつきの橋である。『東海道名所図会』はつぎのように記している。
『東鑑』に、文治四年(1188)正月、三浦介義澄(よしずみ)、浮橋を相模川に構えしこと見えたり。また俗伝に、建久九年(1198)十二月、稲毛三郎重成亡妻の追善のために、相模川に橋供養を営む。この重成が妻は、北条時政が娘にて、頼朝卿の御台政子の妹なり。
これによって右大将結縁のためぶ行き向かい、帰路にして八的原という所において、義経・行家が怨霊を見たまう。また稲村崎にて、安徳天皇の御霊現形す。これらを見て、たちまちに身心昏倒して落馬したまう。供奉の人々前後に囲み、助け参らせて御帰還ある。ついに御病悩おもらせ、医療術を尽くすといえどもさらに寸効なし。その年もすでに暮れて、明くる正治元年(1991)正月十三日、ついに逝去したまう。御歳五十三とぞ聞こえ良し。御台所平の政子、この悲嘆に耐えがたく髪をおろして尼となり、菩提を弔いたまう。
原著 秋里籬島、監修 粕谷宏紀『新訂東海道名所図会(下)』(ぺりかん社)
「相模川」は大きな川で、一級河川である。時刻は 16 時。ここを渡ると今夜、宿泊する「平塚」である。橋の上から川の上流を眺めていると隣に自転車が止まった。外国人の若者が私と同じように川を眺めている。そのうち、スマホを取り出して川に背を向けた。自撮りをするつもりらしい。「写真撮りましょうか?」と英語で声をかけると、ニコッと笑ってスマホを差し出す。橋の上に立っている写真、自転車に乗って威勢よくポーズした写真など数枚を撮る。今度は私の写真を撮ってくれる。最後に一緒に撮ろうという。二人並んで、彼がスマホを前に差し出してパチリ。写真に満足したようで「アリガト」というと自転車に乗って去っていた。小太りの体型に黒い髪。人懐っこい雰囲気から南米人だと思った。半袖、裸足にサンダルという姿。今日は暖かかったとはいえ 1 月の末である。なんと元気なことか!

平塚市に入る。ホテルは平塚駅の南側なので、途中で JR の線路を越える。16:36 ホテルにゴールイン。戸塚から 25.7 キロ、7 時間 43 分の道中だった。今日もよく歩いた。今夜は居酒屋で地酒を飲むことにしよう!

