
由比宿
「由比」といえば、先に述べた「由井正雪」、それから「桜エビ」と「薩埵(さった)峠」である。この峠は「興津」との間にあるので、後で述べよう。「由比宿」の概要は次の通り。
- 所在地:駿河国庵原郡(静岡県静岡市清水区由比)
- 江戸・日本橋からの距離:38 里 21 町 45 間
- 宿の規模:家数 160 軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠屋 32
- 宿の特徴:由比川が駿河湾に注ぐ河口、海辺に臨んで細長く形成された小さな宿場町。

「由比宿」は小さな宿場町である。隣の「蒲原」の家数は 653 軒だからその 1/4 しかない。距離も 600 m 程度でとても短い。慶長六年(1601)時点で伝馬として提供できる馬数は 36 疋。ところが、寛永十五年(1638)には東海道の宿駅は 100 人・100 疋の常備人馬を義務づけられたから、対応困難である。北田・町屋原・今宿の三ヵ村、さらに八ヵ村を「加宿」して対応した。そこで「問屋場」も 11 村の共同運営となり、「加宿問屋場」と呼ばれる。
「由比宿」の通りは「蒲原」同様、昔の雰囲気を残している。街道の左側におそば屋さん「由の家」を発見。ちょうど 12 時だったので、ここで昼食休憩とする。


この建物、昭和 5 年築の町屋造りの古民家である。さすがに、江戸時代とはいかないが十分に雰囲気を楽しめた。ここで駿河湾産の桜エビのかき揚げをいただく。お蕎麦もとても美味しかった。混んでいたので料理が出るまでかなり待ったが、いい足休めとなった。

この店の前が「東海道由比宿交流館」を初めとする建物が建ち並ぶ「由比本陣公園」だ。店の隣は「由比正雪」の生家とされる「正雪紺屋」。
「由比本陣公園」は「本陣」を再現した建物群で、その奥に「東海道広重美術館」がある。ここは時間の関係でパス。公園はなかなか立派なものだ。正面に重厚な門が作られている。



向かい側の「正雪紺屋」は江戸時代初期から四百年も続いている紺屋(染物屋)で、「由比正雪」(1605 ~ 51)の生家といわれている。「由比正雪」は四代将軍「徳川家綱」の時、幕府覆滅を狙った「慶安事件」の首謀者で、事件は未遂に終わり、正雪は捕り手に宿を包囲されて自害、そのほかの一味も捕縛あるいは自害し、一味とその親族 35 人が処刑されて落着したとのこと。関係親族である「紺屋」が残っているのも不思議といえば不思議。「由比正雪」との関係はあくまで推測なのだろう。
あっという間に「由比川橋」まで来てしまった。この手前に「西の枡形」があるので、「由比宿」もここまでだ。


「由比川」沿いには桜が植えられているが、こちらもまだだいぶ早い。
由比宿~薩埵峠~興津

「由比川橋」を越えても古い建物が残っている。こちらの建物の前の説明板には「せがい造りと下り懸魚(げぎょ)」と書いてある。「せがい造」とは「軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁とし棰(たるき)を置いたもの」で、 写真 8 の軒にたくさん突き出た腕木がそれ。由比の町並みでは特に多く見られるものだそうだ。 「下り懸魚」とは「平軒桁の両端が風雨による腐食を防ぐための装置で、雲版型の板に若葉、花鳥などを彫り込み装飾も兼ねているもの」で、写真の左に二カ所垂れ下がっている飾り板がそれだろう。この「稲葉家」では魚が施されているとのことだ。

さらに進むと「桜エビ」の店が増えてくる。「由比漁港」があるのだ。この「桜エビ漁」は明治頃から始められ、大正時代には紙・ミカンを抜いて地域の産物の第一位となったという。「由比駅」のそばには「桜エビ通り」もある。
一番山側の道「県道 396 号」を歩いている。海岸から順に「東名高速」「国道 1 号(富士由比バイパス)」「東海道本線」「県道 370 号線」「県道 396 号線」と海と山との間の狭い場所に鉄道・道路合わせて 5 本も走っている過密地帯である。この「県道 396 号」から「薩埵峠」へと向かう「旧東海道」が分岐している。

細い道で、最高速度も 30 キロだ。右側に「名主の館 小池邸」。江戸時代、村役人の筆頭のことを「名主」と呼んでいた。ここは寺尾村の名主の屋敷。この建物は明治時代のものらしい。

この先、山道を登っていくと左側に休憩所があったのでちょっと一休み。桜の木があるが残念ながらまだつぼみのだ。振り返ると「富士」が見える。「蒲原」の北の山々が遮っているので、さらに綺麗な「富士」を見ようと思えばもっと高みに上がる必要がある。右側にうっすら見えているのは「愛鷹山」だろう。

「倉沢」に入る。ここは「間宿」となっていた。「脇本陣柏屋」の前を通る。


この先で道が二手に分かれ、右側の坂道が「薩埵峠」に上がる「旧東海道」だ。この分岐の手前右側に「一里塚」、左に「望嶽亭」と呼ばれた茶店「藤屋」があったのだが、目の前の山道に気を取られて、すっかりスルーしてしまった。

細い道である。斜面に枇杷やミカンが植えられている。果樹園の中の道である。「駿河湾」が見えた。「東名高速」が写真右側で山に突き刺さっている。トンネルがあるのだ。この上が「薩埵峠」に当たる。一方、「国道 1 号線」は海辺を走っている。

「東海道」がこの「薩埵峠」を通るようになったのは天和二年(1682)以降である。この道を「上道」という。古くは「国道 1 号線」が通っている海岸線を通っていた(下道)。これは馬なら一騎しか通れないような狭い道で、明暦元年(1655)に薩埵山中に街道が開かれた(中道)が、これも狭く、坂が急な難所だったらしい。そこで三たび、街道が付け替えられたという。
『東海道名所図会』には「中古地蔵薩埵の像、この浜より漁夫の網にかゝりて上がりしより、薩埵山という。この峠より左の方五町に薩埵村ありて、村中東勝院の地蔵堂にこの尊像を安置すという。(中略)それにこの嶺は絶景にして、まず寅の方〔筆者註:北北東〕には富士の高根白妙にして、時しらぬ雪をあらわし、卯の方〔東〕には愛鷹山、巳の方〔南南東〕には伊豆の岬、酉の方〔西〕には三保の松原、みな鮮やかに見えわたりて」とある。
13:50 にやっと「薩埵峠駐車場」に到着。「由比川橋」から 1 時間 15 分である。日曜日とあって、結構、混んでいた。ここから見る「富士」は写真 15 だ。今日は「黄砂」が飛ぶとの予報。残念ながら山々はくっきりとは見通せない。

さあ、ここからハイキング道に入ろうと思ったのだが、問題が起こった。通行止めになっているのだ。「令和 4 年 6 月に薩埵峠ハイキングコースにて、崩落が確認されました。崩落箇所以外にも危険箇所が確認されたため当面の間ハイキングコースの一部区間を通行止めとします」との無慈悲な表示。仕方がないので、ハイキングコースをあきらめ自動車道を歩いて「興津」に向かう。もし通行止めでなければ次の様な光景を見ることができたはずだ。

図 1 の広重の絵と比較すると、広重は「富士」をかなり高く描いていることがわかる。さらに「富士」にかかる山を左にずらし、右の山が「愛鷹山」だとすると、これもかなり左に移動させている。
自動車道は単調で特に見るものはない。「東名高速」の右側を走る道である。後から調べるとハイキング道に戻る道があったようなのだが、この時は気づかなかった。また、実は『東海道名所図会』にあった「地蔵薩埵の像」を安置した「東勝院」のそばも通っていたのだ。
「おきつ川通り」で左折。「東名高速」を潜り、「興津川」に沿って南下すると川の向こうに建物が見える。これが今日の宿「クア・アンド・ホテル 駿河健康ランド」だ。「興津川」にかかる「浦安橋」を渡ったところで第二日を終了。「吉原宿」からの歩行距離は 24.6 キロ、時間は 7 時間 41 分だった。



