旧東海道歩き旅(38)赤坂宿~藤川宿(2024.10.17)

図1 安藤広重「東海道五十三次 赤坂 旅舎招婦ノ図」

赤坂宿

赤坂は立派な家が立ち並び、そしてたくさんの大へんきれいな宿屋のある町筋から成っている。われわれは家の中にめかした娼婦がかなりいるのに出会ったが、特に旅館にはそういう女が大へん多くいて、客をとらなければならないのである。それゆえ、この土地は娼婦の市場という名が付いていた。けれども料理旅館では給仕女は幾らかは態度がよいという。(第 10 章 京都から浜松までの旅)

御油の町に行くのに、われわれは八〇歩の長さの大きな橋を渡った。ここの宿という宿には下品に厚化粧した女たちがいっぱいいた。(略)赤坂の町。われわれは夕方ここに辿り着いたが、ここには御油にひけをとらない各種の女がいた。町は二五〇戸から成り、われわれが江戸や、また江戸からここに来るまでに見た家のうちで、最も大きな家構えであった。二階が張出した高い家も多く、一部分よく耕作された緑の丘の間に建っていた。(第 13 章 江戸から長崎までの帰り旅)

ケンペル・斉藤信訳「江戸参府旅行日記」(平凡社『東洋文庫 303』)

 これは何回か紹介しているドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの長崎から江戸への参府旅行日記の「赤坂」「御油」の記述である。この旅は元禄 4 年(1691)に行われた。当時、「赤坂宿」がきわめて繁栄していたことが分かる。かなり興味を持ったのだろう「飯盛旅籠」と「飯盛女」について詳しく書いている。

 広重の絵は「赤坂 旅舎招婦ノ図」で、この「飯盛旅籠」の光景。右側の部屋では「飯盛女」たちが入念に化粧している構図。この絵については、のちほど詳しく述べよう。

 宿場の概要はつぎの通り。

  • 所在地:三河国宝飯郡(愛知県豊川市赤坂町)
  • 江戸・日本橋からの距離:76 里 25 町 45 間
  • 宿の規模:家数 349 軒、本陣 3、脇本陣 1、旅籠屋 62
  • 宿の特徴:御油と並んで「飯盛旅籠」が人気だった
図2 赤坂宿拡大図(東海道御油宿・赤坂宿マップから)

 図 2 が「赤坂宿」の地図である。前回の「東見附跡」から旧街道(県道 374 号線)を北上する。「関川神社」の前を過ぎると左に本陣跡、その先の四つ辻の右側が「赤坂宿公園」になっており、各種の説明板が立っていた。この場所は「豊川市赤坂町紅里」、「紅里」とはいかにもそれらしい地名である。

写真1 関川神社
写真2 赤坂宿公園

 そして、その先、道の左側に「大橋屋」(旧旅籠鯉屋)があった。

写真3 大橋屋正面

「大橋屋」は江戸時代には「鯉屋」という名前の旅籠だった。もちろん飯盛旅籠であろう。建物は文化六年(1809)の赤坂宿の大火以降に建てられたと考えられている。明治以降、所有者が次々と変わり、屋号も「大橋屋」と改められた。平成27年(2015)までは旅館として営業されていて、東海道五十三次の宿場町のうちで、江戸時代の建物のまま営業する最後の旅籠だったが、廃業後豊川市に建物が寄贈され、江戸時代の旅籠建物の姿を再現することを基本とした改修復元工事が実施され、現在に至るとのこと。ボランティアガイドさんもいて、実に詳しく説明してもらった。現在は、写真の左側の出入口が使われているが、本来の玄関は右端の開口部である。パンフレットをもとに見取り図を再構成してみた。

図3 大橋屋見取り図(大橋屋のパンフレットから再構成)

 現存するのは図の右側正方形の主屋部分のみ。昔は間口が狭く、奥行きの広い建物で主屋に続いて継ぎの間、奥座敷、土蔵が建っていた。1Fの玄関は図の番号 4 の部分で、現在は大戸のところから出入りしている。ナカミセから上がって見学したが、部屋は整備されてとても綺麗である。屋根裏には立派な梁が通っている。

写真4 玄関、ミセ、オクミセ
写真5 ナカミセと仏間、左は台所
写真6 吹き抜け部分から見た屋根裏、立派な梁が見える

 二階には座敷が三つ並んでいた。旅館時代はここに泊まっていたのだろう。江戸時代の宿泊には主屋よりも奥座敷の方を用いていたのではないかと思う。街道に面した側が一階より少し外に突き出ており、格子戸が作られている。外からは格子を通して綺麗なオネェサンの姿が眺められたのだと思う。

写真7 二階座敷
写真8 格子戸ごしに街道が見える

 一階の継ぎの間、奥座敷などの部分は現在空き地で、部屋割りのみが示されている。

写真9 一階奥座敷部分、現在は部屋割りを示すのみ

 主屋のすぐ裏には中庭と石灯籠、それからソテツがある。ここで冒頭の広重の絵である。飯盛旅籠の光景なのだが、石灯籠とソテツが描かれている。この光景、大橋屋の中庭がモデルと言われており、絵を模して再現された。江戸時代のソテツは裏の浄泉寺に移植され、現在も残っているらしい。

写真10 奥座敷への渡り廊下部から主屋を臨む。中庭に石燈籠とソテツが再現されている

「大橋屋」の入口の辺りに芭蕉の句ののれんがかかっていた。「夏の月 御油より出でて 赤坂や」である。「御油」は「赤坂」より東にあるので当たり前なのだが、芭蕉が詠むと俳句になる。この句の碑がさきほど通り過ぎた「関川神社」にあるらしい。

写真11 芭蕉の句ののれん

「大橋屋」の隣には「脇本陣」があったようだが、現在は公園・駐車場となっている。その先、左側には無料休憩所「よらまい館」、その前には「陣屋跡」の説明板があった。

写真12 脇本陣跡
写真13 無料休憩所「よらまい館」
写真14 赤坂宿陣屋跡説明板

 ここで時刻は 12:15、さきほど「大橋屋」でこの辺りで食べるところはないか聞いた。地図ではピザ屋さんがあることになっていたが、今日は定休日とのこと。これまでと同様、街道沿いに店はなく、「国道 1 号線」まで出なければならないらしい。幸い、この付近は国道まで近い。ということで、国道沿いのレストランで昼食。よせばいいのにワインまで飲んでしまった!

 街道へ戻る途中に「杉森八幡社」に立ち寄る。これは立派なクスノキだ! 樹齢千年を越えているらしい。2本あるので「夫婦クスノキ」として親しまれているとのこと。13:05 街道に戻り、つぎの「藤川宿」まで歩き始めた。

写真15 杉森八幡社と大クスノキ

赤坂宿~藤川宿

図4 赤坂宿~藤川宿行程

「御油宿」と「赤坂宿」の間はとても短かったのに、つぎの「藤川宿」までは二里九町、 2 時間以上かかる。道はゆるやかな上り坂、さっきのワインが回ってきて暑い。さらに上からも強い日差しが照りつける。なかなかの苦行だった。ただし、図 16 のようなところで、なかなかいい感じだ。ところが、「長沢駅」をすぎたところで「国道 1号線」に合流してしまい、味気ない国道歩きになる。

写真 16 名電長沢駅手前の旧東海道

「岡崎市」に入った。「本宿(もとしゅく)町」に入ると、国道横に「冠木門」が作られていた。「本宿」は間宿で、ここから「岡崎」まで一里と書かれている。ちょっとここで一休み。ここから、街道は国道を離れて左に入っていく。左手に「法蔵寺」が見える。701 年、行基僧正の開基とのこと。

写真 17 法蔵寺
写真18 本宿の一里塚の標柱

「本宿の一里塚」を過ぎると、また国道に戻る。かと思うと、その先「名電山中駅」の辺りで左側に入らねばならず、ちといそがしい。また国道に戻ると、左手少し離れて「山中八幡宮」の赤い鳥居が見えた。裏が鬱蒼と木が茂る森になっていて、その上に「山中忠重」の古城跡があると『東海道名所図会』に書かれているが、この人物が誰か不明。『あいち歴史観光』には「諸説あるが、西郷氏または岡崎松平家により城の基礎がつくられたとされる」とあった。

写真19 山中八幡宮の鳥居

 再び国道を離れて左に入っていくと「藤川宿」である。 15:26 「東棒鼻跡」に出た。この日はそのまま「名電藤川駅」まで歩き、電車で「東岡崎駅」に行って宿泊した。「吉田宿」からここまでの歩行距離は 29.3 km、見学・休憩・昼食を含む歩行時間は 8 時間 38 分だった。

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