今回は「安房天津駅」をスタートし、海岸線を「鵜原駅」まで歩く。基本、海岸線を歩くがトンネルの状況によっては、海から離れた国道 128 号のバイパスを歩いた。回を重ねるにつれ段々賢くなって、事前に Google Map のストリートビューで候補となるコースのトンネルの状況を把握し、安全な方を選ぶようになったのだ。
地図で明らかなように今回は西から東への移動である。現在、銚子に向けて房総半島を北上中だが、この辺りは陸が海に張り出している。チーバ君のお尻と手に当たる部分だ。前回の「鴨川」が扇状地で、そこを過ぎて大原あたりまでが、この山が海へ突きだす地形となる。さらにその先はチーバ君の背中に当たる凹んだ弓状の地形に入る。延々と砂浜が続くことになる。「九十九里浜」だ。

さて、2023 年 3 月 3 日、外房線に乗って 9:10 に「安房天津駅」に着いた。丁度、ひな祭りの日なので、「かつうらビッグひなまつり」が開催されており、「勝浦駅」で降りる人が多かった。駅の階段にひな人形が飾られているのが電車から見えた。おばさんたちが病気の話をしている。亀田総合病院に行くのだろう。「安房天津駅」で降りる人はほとんどいない。

駅から海岸沿いに進む。しばらく行くと砂浜に出る。「城崎海水浴場」だ。その先が岩場の「実入海岸」でここから道は内陸部に入る。「松ヶ鼻」を迂回するのだ。


ここで最初のトンネルにがあった。その前で右に行く分岐があり、進むとピンク色のトンネルがあった。「とんねるすいぞくかん」と書いてある。入ると楽しい海の壁画が続いている。「トンネルを利用する方々が安心して楽しく通行でき、新しい観光ポイントになるようにとの思いから平成 17 年 11 月に完成したトンネル壁画です」とある。おかげで楽しくトンネルを抜けることができた。


トンネルを抜けると「内浦湾」である。ここは「鯛ノ浦」として有名なところである。
「内浦湾内、誕生寺前の渡船場から東南方へ船で五分ぐらいの海域で、伊貝島 弁天島などの近辺に多数のタイが群生するので、このあたりを『妙の浦』と呼んでいる。
ここに集まるタイ類は、大部分がマダイで、ほかにクロダイ、メジナ、イスズミなどが混じっている。マダイは、深さ 30 〜 150 メートルぐらいの海中に生息し、普通はその中層あたりを泳いでいるて定着性の近海魚である。しかし鯛の浦は、10 〜 30 メートルの浅瀬でしかも限られた狭い海域に生息し、人間の投与する餌(魚の切身など)をよく食べるのは、ほかに見られない現象である。
日蓮聖人が誕生した古来殺生禁断の聖地であり観光船の船ばたをたたくと海底から姿を浮上させあらそって餌をもとめるのは不思議なことといわれている。」
と、説明板に書かれている。内浦海水浴場から来た方向をカメラに収めた。突き出した岬が「松ヶ鼻」だ。波穏やかな綺麗な砂浜が広がっている。この湾の先に日蓮聖人が生まれたという「誕生寺」があり、その周辺に数件の旅館が集まっている「小湊温泉」、その先の海が「鯛ノ浦」である。


「誕生寺」にお参りする前に、「鯛ノ浦遊歩道」を歩いてみよう。扁平な岩が重なる海岸線である。進行方向には 2 つの小島がある。左側が「小弁天」、右側が「大弁天」という名前である。名前の通り「大弁天」の方が大きいのだが、遠くにあるので同じくらいの大きさに見える。小弁天の向こう側にでは釣り客がいた。鯛ノ浦、絶好の釣りポイントなのだ。鯛が釣れたのだろうか?



遊歩道の終点には、昭和 48 年に昭和天皇・皇后両陛下が行幸啓された際の記念碑が立っている。ほとんど説明がなく分からなかったのだが、写真の歌碑があり、皇后陛下のお詠歌「波の間に 姿を見せつつ 鯛のむれ ふなべにあつまり あまたよりくる」が刻まれているとのことだ。

遊歩道を戻り、日蓮聖人像を安置している「誕生寺祖師堂」にお参りする。参道の左手には「日蓮聖人御幼の像」があった。


誕生寺を出て旧道(伊南房州道往還)を歩く。誕生寺の周辺では道幅が広いが、しだいに細くなって山の中にはいっていく。トンネルがあった。昭和 14 年に作られた「小湊隧道」だ。見るからに古い造りである。車の通りが少ないので良いが、歩道はないし、照明もないので、足下に注意して進む。

トンネルを抜けると海沿いの道となる。鯛ノ浦の遊歩道の先に大弁天島があり、その先は「入道ケ崎」で、この岬を回ったところにトンネルの出口がある。振り返ると「入道ケ崎」と「雀島」がよく見えた。今度は進行方向を見る。左端の漁港が「大沢漁港」、そして中央が浜行川岬、そしてそこに至る崖が「おせんころがし」だ。この崖に以前は道があり通行の難所だった。



さて崖の道がどのように通っていたかだが、崖の中腹にそれらしき跡が見えている。これを行くのはさぞや大変だったろう。現在の私は「おせんころがしトンネル」を歩く。ここはちゃんと歩道がついて安全だ。


トンネルを抜けて海側に入ったところに「おせんころがしの碑」があるので寄り道していこう。碑の先まで「大沢漁港」から道が繋がっていた。その様子を見たいと思ったのだが、柵があって立入禁止となっている。枯れ草があって、崖の様子を見ることはできなかった。供養塔のそばに「おせんころがし」の説明板が立っていた。


国道に戻ると、すぐに「行川アイランド駅」に出る。かつてここにフラミンゴのショーで有名な「行川アイランド」(2001 年 8 月閉園)があった。場所は浜行川岬の上だ。地図の右側にその跡が記されている。昔の園内マップは下記にあるので比較してみると面白い。私はここに 2 回行っている。よくこんな場所にレジャー施設を造ったものだと思う。確かにある意味で世俗から隔離された「楽園」だったかもしれない。
http://iwashimizu.travel-way.net/repo1/2001/010805namegawa/2005_0213_102027.JPG

更に進むと道が 2 つに分かれている。右が浜行川に進む国道 128 号、左がそのバイパスである。冒頭に書いたとおり、私はバイパスを選択した。どちらの道にもトンネルがあり、国道 128 号は歩道なし、バイパスは立派な歩道付きだったからである。

このトンネルを抜けるとすぐもう一つトンネルがあるが、その手前で左折して海側へと向かった。ここで国道 128 号に乗り、「興津」の町に入っていく。

興津の町はちょっと開けていて、食堂もある。私はここで味噌ラーメンをいただいた。勝浦タンタン麺の地元だが、刺激物をとってトイレに行きたくなると困るので、ここは味噌ラーメンとなった次第。さて、興津であるが、駅名は「上総興津」と「上総」がつく。つまり、安房国から上総国に戻ったわけだ。内房での上総・安房の境界が鋸山だったように、おせんころがし周辺の山が国の境界となっているようだ。「興津」は「津」という文字があることから、昔から船がたくさん出入りした港町だったのだろう。

「興津トンネル」を抜ける。ここには歩道トンネルがある。その先は砂浜の「守谷海岸」だ。正面に島があり、赤い鳥居が見えている。そして、その先にあるのが「犬ヶ岬」だ。この辺り、多数の岬が連続しており、岬と岬の間に砂浜がある。海によって岩石が浸食されることで砂が作られ、岬と岬の間は湾になっていて波が穏やかなので、砂が沈積しやすいのだろう。


道は「犬ヶ岬」を迂回する。「鵜原トンネル」を抜ければ「鵜原」である。鵜原にも砂浜が拡がっている。前に見える岬が「明神岬」で、そこに「鵜原理想郷」があるのだ。湾をぐるっと回わると、「鵜原理想郷」に入るトンネルがあった。実は、先ほどから何人かの観光客とすれ違っている。トンネルを抜けて、その意味が分かった。順路の矢印が表示されているのだが、私の進む方向と逆なのである。どうやら逆回りをしているようだ。


「鵜原理想郷」の地図があったので写真に収めておく。これから行かれる方はこの地図を十分に頭に入れておくことを進める。明神岬、白鳳岬、毛戸岬、手弱女平と 4 つの岬があり、稜線を歩いてそれぞれの岬の上に行けるようになっている。それぞれの岬への分岐点の表示があまり丁寧ではないので、うっかりすると道を見落としてしまう。私もそうで、白鳳岬、毛戸岬をスルーしてしまった。

さて、トンネルを抜けてどんどん上っていくと「黄昏の丘」へ入る道がある。そこに拡がる光景がこれだ。今、自分が岬の上にいるのだと分かる。目の前には浸食された崖が広がっている。「黄昏の丘」は「明神岬」の上にある。ここからは鵜原の砂浜と隣の「毛戸岬」が見える。

元の道に戻り進むと、右への分岐があるが表示はないのでスルー(これが「毛戸岬への道だったようだ)。つぎの分岐を入ると、「篠田悌二朗句碑」がある。
崎山に 千草の平ら 虫の原
俳人篠田悌二郎が当地を訪れ詠んだ句だとのこと。ここから「手弱女平(たおやめだいら)」が見える。道が左にカーブしている。

「手弱女平」は岬が東に向かって突き出た岩山で、先端に「鐘型モニュメン」が設置されている。西側には「毛戸岬」、東側は次回のウォーキングで訪れる予定の「かつうら海中展望塔」が見える。その先に見えるのは「勝浦」の町と「八幡岬」だ。




絶景だった。絶壁を直ぐ近くに見ることのできるポイントは珍しい。いやそういうところは他にもあるのだが綺麗に整備されていた。こういう生々しい風景は見られない。岬が近接していて、自然に近い状態なので、目の前に広がる荒々しい光景に息を飲むのだ。入り江にも降りることができるようなのだが、帰りの電車の時間もあるので、ここまでと鵜原駅に進むことにした。

これが鵜原館側のトンネルで、本来はここが入り口である。出ると「鵜原理想郷」の説明板があった。
「この理想郷が脚光を浴びたのは、観光開発ブームが起きた大正末期のことで、時の鉄道大臣大木遠吉の秘書、後藤杉久という青年が別荘分譲を開始してからのことです。後藤は風光明媚な鵜原の地に大臣村の建設を計画し、東京から大臣らを招いては日夜、大園遊会を開催しました。その席上、後藤杉久は初めて鵜原を理想郷と呼びました。その後、大下遠吉が正式に理想郷と名づけ、あわせて昭和二年に鵜原駅を設置し、その名を全国に広めました。」
千葉県立博物館別館「海のミュージアム」の勝浦探訪に「鵜原理想郷の名の由来」という記事があり、上記の園遊会の写真を見ることができる。明神岬で開かれたとあり、場所は「黄昏の丘」ではないかと思った。

「鵜原理想郷」は別荘地として売り出されたのだが、それほど人気が出た訳ではないようだ。三島由紀夫が 20 歳の時書いた小説「岬にての物語」はこの「鵜原」が舞台である。彼は 12 歳の頃に家族で一月ほどこの地に滞在しており、たいそうその景観が気に入っていたという。こんな文章がある。ここでは「鵜原」は「鷺浦」となっている。
房総半島の一角に鷺浦(もはやその名が示す鷺の群棲は見られないが)といふあまり名の知られぬ海岸がある。類ひ無い岬の風光、優雅な海岸線、窄いがいひしれぬ余韻をもつた湾口の眺め、たゝなはる岬のかずかず、殆んど非の打ち処のない風景を持ちながら、その頃までに喧伝されて来た多くの海岸の名声に比べると、不当なほど不遇にみえる鷺浦は、少数の画家や静寧の美を愛する一部の人士の間にのみ知られてゐて、その誰にとっても、不遇なままの鷺浦が愛の対象であったので、世に紹介する労をとる人はなく、又知人にさへ洩らすまいと力めてゐる人さへあった。だが鷺浦が世に知られぬ理由は、美を保護せんとするこの種の人々の秘密結社的な態度にのみあるのではなく、ここの風景そのものに一種隠逸の美、世の盛りにあつて明媚な風光をば酒宴の屏風代わり使ほうと探してゐる人々の目には何か容易に肯んじ難いものを与へる美が、潜在する点にあったのではなからうか。
「岬にての物語」決定版三島由起夫全集第16巻(新潮社)より
また、三島由紀夫の鵜原の景観描写も引用しておこう。
扨て私は蝉の諸声に耳を重たくされつゝ、好きな弁天裏の石段を昇り、杜の中の急坂を通つて岬の頂きへ出たのだつた。豊かな海風がその頂きを満たしてゐた。私は杜に沿うて、巌と草叢の烈しい斜面をそろそろと海の方へ下りて行つた。草からつき出た兜のやうな一つの巌に身は凭れ、海をながめ耳傾けた。遙か遙か下方の巌根に打寄せる波濤の響きは、その遠く美しい風景からは抽象されて、全く別箇の音楽となり、かすかに轟く遠雷のやうになつて天の一角からきこえて来るので、めくるめく断崖の下に白い扉をひらいたりとざしたりしてゐる波濤のさま、巌にとびちる飛沫、一瞬巌の上で烈々とかヾやく水、それら凡ては無音の、不気味なほど謐かな眺望として映るのであった。
「岬にての物語」決定版三島由起夫全集第16巻(新潮社)より
「鵜原理想郷」を後にして、15:11 に鵜原駅にゴール。歩行距離 21.8 km、歩行時間 5 時間 55 分だった。


