旧東海道歩き旅(0)市川駅~日本橋(2023.12.13)

 2024 年から「旧東海道歩き旅」を始める予定だ。これに先立って「千葉県ぐるっとウォーキング」と連結させておこうと考えた。すでに歩いて到着した「JR 市川駅」から「日本橋」までの区間を歩けば二つが繋がる。今回は地図の様に、もっぱら「千葉街道」を歩くことになる。道中、川を 6 本渡る。「江戸川」「中川(新中川、中川、旧中川)」「荒川」「隅田川」だ。

 2023 年 12 月 13 日、「JR 市川駅」を 8:43 にスタート。天気は快晴、12 月にしては暖かい。駅から小道を少し西へ進んだ後「千葉街道」に入る。このあたりでは「千葉街道」は「国道 14 号線」である。この「千葉街道」という名称は明治なってからのもので、江戸時代には「佐倉道」と呼ばれていたようだ。北側に神社があったので立ち寄ってみる。「鼓録神社」と書かれている。特に由緒を書いた説明板はない。帰ってから調べると祭神は「面足尊(オモダルノミコト)」と「惶根尊(カシコネノミコト)」。この「面足尊」「惶根尊」は兄妹神であり、仏教においては「第六天魔王」の化身とされた。つまり、仏教における三界(無色界、色界、欲界)のうち「欲界」の最高位が「第六天」であり、その天主が「第六天魔王」である。特に修験道で信奉されたが、明治の神仏分離で、寺院の多くが「第六天神社」「胡録神社」「面足神社」といった神社に変身したらしい。

写真1 市川駅
写真2 胡録神社

 さらに「江戸川」へと進む。その手前にも「稲荷神社」があるとのことで行ってみると、色づいた銀杏の木のところに小さな神社があった。その先、「国道 14 号」の横の道を「江戸川」方向に進むと、土手に上がる階段。ここを上った右手が「市川関所跡」だ。

写真3 稲荷神社の銀杏
写真4 稲荷神社
写真5 江戸川土手に上がる階段
写真6 市川関所跡

「千葉県ぐるっとウォーキング」で述べた様に、江戸時代、「江戸川」には橋をかけることが禁じられていたため、ここに「渡し」があり、対岸の「小岩」とセットで「関所」を置いて、江戸へ入る武器と江戸から出ていく女性を特に厳しく取り締まっていたらしい。市川村では、2 ~ 3 艘の船を用意し、川端に番小屋を建て、20 人前後の船頭や人夫を雇い、渡し船を出していた。この渡船の運行は明治 2 年 (1869)に関所廃止令が出された後も続き、明治 38 年(1905)に「江戸川橋」が架けられて終了する。ここに関所跡の碑が建てられてはいるが、実際の位置は度重なる河川の改修で不明のようだ。

「市川橋」を渡る。向こうに見えているのは「京成電鉄の鉄橋」。これで東京都に入った。「小岩」である。「千葉街道」はここで南西へと向きを変える。JR の線路を越えたところ、駐車場の横に「小岩の一里塚」の説明板が立っていた。「一里塚」とは「一里=約 4 km」を単位として、旅行者に対する目印として設置した塚である。慶長 9 年(1604)の幕府の指令により、全国の主な街道で一里塚の設置が始まっている。「小岩」では 2 箇所に設置されていたらしい。

「新中川」にかかる「小岩大橋」から「富士山」と「スカイツリー」が見えた。せっかくだから、ツーショットを撮っておこう。この「新中川」だが、葛飾区高砂で「中川」から分かれる。もともと「中川放水路」と呼ばれ、水害を防止するために「中川」の水流を分散させるために作られたものだ。「中川」の名称は「隅田川」と「江戸川」の「中」を流れていることからつけられたらしい。江戸時代に流れていたのは西から、「隅田川=荒川」「中川」「江戸川」の 3 本。上流での水害を防止するために、「荒川放水路=現在の荒川」が作られ、その後「中川放水路=現在の新中川」が作られた。また、「中川」も分断されて、「荒川」と並行して走る「中川」と、分断された元の「中川」の下流が「旧中川」となったとのことだ。

写真7 小岩大橋から見える富士山とスカイツリー

 さらに国道 14 号を進むと、「八蔵橋(はちぞうばし)」の交差点で国道は南に折れ曲がる。国道から離れて、真っ直ぐ進むと古い橋に出た。こちらも「八蔵橋」と書かれている。その横に「元佐倉道」の説明板があった。どうやらこの道が「元佐倉道」で、この橋が昔の「八蔵橋」らしい。元禄以前、北小岩 3 丁目の「小岩市川の渡し」から小松川 2 丁目の「逆井の渡し」まで、ほぼ一直線の道が作られ、江戸と房総を結ぶ主要な道として機能していたが、元禄期にその機能は「小岩市川の渡し」から葛飾区「新宿(にいじゅく)」へ向う「佐倉道」に移ったらしい。明治になるとこの「元佐倉道」が「千葉街道」となる。

写真8 旧八蔵橋

 橋の南側が「小松川境川親水公園」だ。ここで、しばらく休憩する。「小松川境川」は「小岩」から流れる自然河川で、「小松川村」の境を流れていたのでこの名がついたらしい。現在は綺麗な公園になっており、そこで持参したクッキーを食べながら自然を愛でた。木々が色づいてなかなか綺麗な風景だった。

写真9 小松川境川親水公園

「旧八蔵橋」から「中川」へと向かう道路へ戻ると、「五分一橋」という交差点に出た。周りをみても橋らしきものはない。どうも昔はここに「小松川境川」の支流が流れていて橋があったようなのだが、埋め立てられてしまったようだ。

「小松川橋」を渡る。実はこれを書くまでここを流れているのは「荒川」だと思っていた。 2 本の川が並行して流れていて、その中央に「首都高速中央環状線」が走っているのだ。川は千葉県側から「中川」、続いて「荒川」である。

写真10 中川と首都高速中央環状線
写真11 荒川

 ここで「小松川神社」を見ていこうと「国道 14 号」を離れて南に向かう。「首都高 7 号小松線」のひとつ北側にある道路を歩いたが、首都高の下の道路が「旧千葉街道」で、これと「旧中川」の交点が先ほど出て来た「境の渡し」なのである。「小松川神社」は新しい神社である。この地域自体、平成期に大規模な「防災再開発」が行われて近代的になっている。もともとこの地は葛飾郡西小松川村に属していたが、大正時代に「荒川放水路」の開削によって村から分断されてしまい、鎮守の「新小岩香取神社」「西小松川天祖神社」への参拝が困難になったため、二つの神社から分祀して新たな神社を作ったのがこの「小松川神社」で、さらに前述の都市再開発で位置を移動している。祭神は「天照大神」。 

写真12 小松川神社

「旧中川」を渡り、「江東区亀戸」に入る。道の北側、道路に面して「亀戸浅間神社」の大きな鳥居があった。社内の説明板には、「亀戸浅間神社は、社伝によれば大永 7 (1527)に創建されました。祭神は木花咲耶比売命です。もともとこの辺りの地は高貝洲と呼ばれていました。こ れは日本武尊が東征した時に海が荒れ狂ったため、弟橘媛が海に身を投じ、その際に身につけていた笄(こうがい)が亀戸浅間神社のあるあたりに流れ着いたことによる ものです。のちに景行天皇(第一二代と伝えられる)がその地に笄塚を建てたとされています。この笄塚の場所に富士塚が築かれ、江戸時代には多くの信仰を集めました」とここでも「弟橘媛」が登場。千葉だけではなかったのだ! 社殿は安政の大地震、関東大震災で被災し、現在のものは昭和初年に建立されたもので、平成 10 年の再開発事業で今の場所に移設されたらしい。

写真13 亀戸浅間神社の鳥居
写真14 亀戸浅間神社社殿

 さて、ここからすぐ北の「国道 14 号」を歩けば「日本橋」まで早く着くのだが、せっかく「亀戸」に来たのだから、「亀戸天神」まで足を伸ばそうと思った。「県道 476 号」を北上し、「亀戸水神駅」の先で「北十間川」に沿って西へ、「福神橋」のたもとで左折すると「亀戸香取神社」が見えている。

 香取神社なので、主祭神は「経津主神(フツヌシノカミ)」。境内の説明板の由緒によれば、「天智天皇 4 年(665)、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納め、旅の安泰を祈り神徳を 仰ぎ奉りましたのが創立の起因」とある。ただし「藤原鎌足」がほんとうに東国下向したのかはハッキリしない。

写真15 亀戸香取神社拝殿

「亀戸」といえば「亀戸大根」が有名で、境内に碑まである。「亀戸大根」は根が 30 センチくらいで短く、先がくさび状に尖っているのが特徴。文久年間(1860〜1864)から昭和初期まで神社の周辺で栽培されていたらしい。

写真16 亀戸大根の碑

 神社の参道を南下し、「県道 315 号(蔵前橋通り)」を西に歩くと、大きく「亀戸天神社」と書かれた参道入り口に出る。そこを入っていくと朱塗りの大鳥居があり、その先が太鼓橋。ここは梅と藤の名所である。梅の木は境内に境内に 300 本、藤は 50 株以上あるという。花の季節には大混雑となるが、今は花も無く、閑散としていた。天満宮なので祭神は「菅原道真」である。

写真17 亀戸天神の鳥居
写真18 亀戸天神社殿

 神社へのお詣りを済ませたあと、「蔵前橋通り」に戻り西へ、「横十間川」を越えて「江東区」から「墨田区」へ入る。途中、スカイツリーを真正面に見える通りを過ぎる。時刻は 12:16、お昼ご飯を食べよう。ところがこれというお店が見つからない。私はほぼ毎月、「すみだトリフォニーホール」で「新日本フィル」を聞いている。ホールがあるのはここより南の「北斎通り」だ。そちらまで行けば店があるかと移動してみる。「すみだ北斎美術館」の先の「地球屋」さんで美味しいカレーにありついた。

写真19 東京スカイツリーが見える通り

「両国」に入る。改修中の「江戸東京博物館」と「国技館」の間を抜けて「JR 両国駅」へ、線路をくぐって南下し「国道 14 号線」を西に進むと、「隅田川」にかかる「両国橋」出た。ガイジンさんのカップルが前を歩いている。橋のたもとで記念撮影、そのあと横にある階段を下りていくようだ。前にこの階段を下りたことがある。ずっと河岸を歩くことができ、なかなかいいスポットだった。私は川の写真を撮り、「日本橋」までの道を急ぐ。

写真20 両国橋から見た隅田川の風景

 橋を渡り、「国道 14 号線」の 2 本南の通り(旧日光街道)を歩いた。「横山町」、ここは繊維の問屋街、道路の両側に繊維関係の店がビッシリ並んでいる。「大伝馬町」から「国道 14 号線」の「小伝馬町」へと進む。この「伝馬」だが、『日本大百科全書』によれば「道中の各駅・宿などに備えて公用輸送にあてた馬」のことをいう。「大伝馬町」「小伝馬町」という地名は江戸初期に荷物運送の伝馬役が置かれたことに由来する。「大伝馬」の方が伝馬役の数が多かったらしい。「日本橋」が近いので、このあたりは江戸の玄関口として、旅籠や呉服問屋などが軒を並べ、たいへん賑わっていたようだ。今もその名残がある。

写真21 横山町の問屋街

「小伝馬町」の交差点から「十思 (じっし) 公園」に入る。いろいろな時代劇に登場する「伝馬町牢屋敷」がここである。ここから牢屋敷の石垣の遺構が発掘されている。昔の「十思小学校」の建物が公共複合施設「十思スクエア」となっており、その別館の中に「小伝馬町牢屋敷展示館」がある。ところが、その奥に特別養護老人ホームがあり、雰囲気はまさに老人ホームの玄関でちょっと中に入りづらい。今回は公園の東側にある「吉田松陰の碑」だけにしよう。「吉田松陰」はここで刑死した。三つの碑があり、左から「松陰先生終焉の地」「吉田松陰辞世の碑」「吉田松陰顕彰碑」である。辞世の碑には「身はたとい 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」と書かれており、これは牢屋敷の中で書き上げられた『留魂録』の巻頭部分の言葉だそうだ。

写真22 吉田松陰終焉の地の碑

 さあ、もうすぐ「日本橋」だ。「小伝馬町」から「旧日光街道」に戻り、首都高の下をくぐって「室町」へ。「室町 3 丁目」の交差点を南に折れ、「COREDO 室町」の前をすぎる。通りの向こうに「三越」が見えている。信号を渡れば「日本橋」である。14:07 麒麟の像のところにゴールイン。歩行距離は 19.2 km、時間にして 5 時間 24 分だった。

写真23 日本橋麒麟の像にゴールイン
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