旧東海道歩き旅(42)鳴海宿~宮宿(2024.10.19)

図1 安藤広重「東海道五十三次 鳴海 名物有松絞」

鳴海宿

 広重の絵の題は「名物有松絞」。絵に描かれているの「有松」の家々か? 写真 1 は前回示した「有松」の「竹田家住宅」だが、家の様子は絵と同じだ。江戸時代には二階の格子部分が白く塗られていたのだと気づく。絵では、店先に[絞」の品々が並んでいて、その前を旅人が通っている。「絞」は土産物として人気があったという。「鳴海」も絞りで有名だったが、タイトルは「有松」。広重はより有名な方を選んだのだろうか? 「鳴海」の町にも同じような家並みがあった可能性もある。「鳴海」は空襲を受けて焼けてしまった。現在の「鳴海製陶」は昔「名古屋製陶所」という名で航空機の空冷気筒を作っていた。そのため、標的にされたのだ。

写真1 有松竹田家住宅

 宿の概要はつぎの通り。

  • 所在地:尾張国愛知郡(愛知県名古屋市緑区鳴海町)
  • 江戸・日本橋からの距離:87 里 11 町 7 間
  • 宿の規模:家数 847 軒、本陣 1、脇本陣 2、旅籠屋 68
  • 宿の特徴:尾張国最初の宿場でかつては海辺の村。鳴海絞りが名産。

 現在は海まで距離があるが、鎌倉時代には目の前に「鳴海潟」という海が広がっていた。『東海道名所図会』には「浜づたいに、宮より鳴海まで往来しけるなり」と書かれている。

図2 鳴海宿の地図(出典 フカボリトウカイ

 図 2 の地図にある「平部町常夜灯」、前回、紹介した様にここが宿場の入り口。そこから少し進むと右手に「金剛寺」がある。

写真1 金剛寺

 その先「下中町」に進んでいくと、車庫から山車を出しているところに遭遇した。そばにいたオバサンに聞くと、明日(10 月 19 日)がお祭りだという。調べてみると「鳴海」の秋祭りは二つある。表方と言われる「鳴海八幡宮」の例大祭と裏方と言われる「成海神社」の例祭である。前者は 10 月の第 3 土曜日、一方、後者は 10 月の第 2 日曜日。「表方」とは、旧東海道「鳴海宿」の中心部で、本陣・脇本陣・高札場・全ての旅籠が密集していた地域のこと。「鳴海宿」の作町・根古屋・本街・相原町・下中町は山車を持っていて、例大祭の翌日の日曜日(つまり明日だが)、八幡宮氏子町内を神輿が渡御する。「旧東海道」を曳きまわすのだそうだ。運良く、その準備が始まるところに出くわしたわけだ。

写真2 下中町の山車

 「扇川」を越えて「相原町」に入ると、右手に「成海根古屋城主 安原宗範」が創建したとされる曹洞宗の「瑞泉寺」があった。その先でまた山車に出会った。

写真3 相原町の山車

 「本町」でも同じだ。この車庫は「本陣跡」の説明板の隣。山車は「本陣車」と書かれている。なかなか立派なものだ。

写真4 本町の山車
写真5 本陣車

 この先の「作町」で街道は右に曲がる。通りの右手に「作町」の車庫。扉が半開きになっていて中の山車が見えている。

写真6 作町の山車

 「作町」からその先の「三皿」あたりでは「連子格子の家」を見かけるようになったが、広重の絵とは雰囲気が違う。

写真7 三皿の千本格子の家

「丹下」の交差点の北西の角に「丹下町の常夜灯」。ここで「鳴海宿」が終了。東にある「成海神社」に立ち寄ろうかとも思ったが、少し離れているのでパスして先を急ぐ。時刻は 10:21。

写真8 丹下町の常夜灯

鳴海宿~宮宿

図3 鳴海宿~宮宿行程

「天白川」に架かる「天白橋」を渡り、「名古屋市南区」に入った。この先の「砂口町」でカフェに入ってちょっと休憩。外に出ると空模様がかなりあやしくなってきた。

写真9 天白橋を渡る
写真10 天白川

「笠寺町」に入って「笠寺一里塚」。ちゃんと土を盛り上げて塚になっている。こういう立派なのは久しぶりだ。

写真11 笠寺一里塚

 この「笠寺」というのは「天林山笠覆寺(てんりんさんりゅうふくじ)」という真言宗のお寺だ。本尊は開基の「善光聖人」の作の十一面観音。ゆえに「笠寺観音」と呼ばれている。このお寺は「結びと縁の寺」として有名なのだ。そのいきさつは『東海道名所図会』に詳しい。

『寺記』にいわく、「当山、むかし聖武天皇の御宇〔724-749〕、善光聖人霊木〔神体つくる木、御衣木〕を感得したまい、熱田明神の神勅を得て、この本尊を彫刻したまい、初めは小松寺と号し、勅願所なり。しかるに星霜〔歳月〕累(かさな)りて、中古兵火のため諸堂滅び、霊像は空しく広野に残りて、道路の涯(ちまた)に立ちたまう。

こゝに鳴海の長者のが侍女に美艶の者あり。殊に大悲〔観音の別号〕を尊信して、こゝに歩みを運ぶこと数月なり。あるとき一村雨来たりて、霊像たちまち雨水に浸す。かの侍女これを悲しみ、みずから被く菅の笠を着せてまいらせけり。その頃、都より昭宣公の嫡男中将兼平卿、吾妻の方下向したまうとき、かの女道のかたわらに笠もなく、面相あらわに美しく見えけるを見初めたまい、鳴海の長に乞うて都へ召しつれ帰りたまう。程もなく妊身となり、ついに御簾中〔公卿・大名の妻の敬称〕となりたまう。その後、この地に下りて伽藍をいとなみ、尊像を安置したまう。このときは、醍醐帝の御宇〔時代〕、延長八年〔930〕の頃とかや。この由縁によって、本尊は今において笠を被きたまうゆえ、世人笠寺という。

ぺりかん社「新訂 東海道名所図会〔中〕」

 つまり雨の中、笠を被せて上げた観音様のご利益で「出会い」と「結び」がもたらされたという話。多宝塔まであるとても立派なお寺だ。

図12 天林山 笠履く寺入り口
写真13 笠寺観音 山門
写真14 笠寺観音 本堂
写真15 笠寺観音 多宝塔

 土曜日とあって、境内ではバザーが開催され、賑わっていた。

写真16 笠寺観音多 境内ではバザーが開催されていた

「富部神社」の前を過ぎる。この辺りは「呼続」というおもしろい地名である。この名の由来はと調べると、「宮宿」から「七里の渡し舟」の出航を知らせる声が人から人へ呼びつがれたことによるという説がある。ここから、渡し場まではおよそ 3 キロの距離。急げば間に合うということか? 「呼続浜」という名は室町時代の「親後拾遺和歌集」にも現れるので、「渡し舟」と関係させたこの説はちょっとうさん臭い。

写真17 富部神社の鳥居

 さらに「熊野三社」の鳥居の横に「東海道」の碑があった。この辺りはかつては「松巨嶋(まつとしま)」と呼ばれる浮島で西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、それが「愛知」の語源だと書かれている。

写真18 熊野三社の鳥居
写真19 東海道の碑(呼続)

「山崎川」を越えて左折。高速の下を潜り、「新堀川」の前に出る。ここを渡れば「熱田区」で「宮宿」まであと少しだが、ここでとうとう雨が降ってきた。

写真20 新堀川にかかる熱田橋

「名鉄常滑線」の線路を潜って少し進むと左側に「裁断橋跡」があった。そばに立っている説明板には「宮の宿の東の外れを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。天正十八年(1590)に十八歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。三三回忌にあたり、再び橋の架け替えを志したがそれも果たさず亡くなり、養子が母の意思を継いで元和八年(1622)に完成させた。この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた」と書かれている。

写真21 裁断橋跡

 では、その銘文とは、どのようなものか気になる。 名古屋市博物館のホームページに出ている文を掲げておこう。

〔かな銘文〕

てんしやう十八ねん二月十八日に、をたはらへの御ちん、ほりをきん助と申、十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見さるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける事、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんしやう ふつし給へ、いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまて、此かきつけを見る人は念仏申給へや、卅三年のくやう也

〔書き下し文〕

天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す、十八になりたる子を立たせてより、又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、今この橋を架ける事、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え、逸岩世俊(金助の法名)と、後の世の又後まで、此書付を見る人は念仏申し給えや。三十三年の供養也。

 時刻は 12:19。「宮宿」に入った。

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