「旧東海道歩き旅」を始めた時、終わったら足をのばして大阪まで「京街道」を歩こうと決めていた。「京街道」は「山科」と「大津」の境にある「追分」から「大阪高麗橋」までの 55 キロ、間の宿場町は「伏見」「淀」「枚方」「守口」の四つで「東海道五十七次」とも呼ばれている。およそ、三日の行程である。
学生時代、大阪に住んでいた。毎年、春に同窓会があるので、それに合わせて少しフライング気味だが駒を進めておいてもよいかと、2024 年 3 月 18 日 12:22 に「髭茶屋追分」にやってきた。朝「東京駅」を発ち、「JR 京都駅」から「JR 山科駅」へ移動、「京阪京津線」に乗り換えて「追分駅」で降り、ここまで歩いてきたという次第。この日の夕刻、同窓会があるので「伏見宿」まで歩いてから、会場の「新大阪」まで移動しようという計画だった。


「追分」の道標だが、まわりを見るといろいろな情報があった。「大津市・京都市」の看板は道の真ん中に境界があることを示しているし、説明板の横に「髭茶屋町」の表示もある。「旧東海道」は右だったが、今回は左に進んでいく。
「京街道」のコースについては、「歴史街道」の中の「京街道」というサイトが詳しい。私は Garmin ウォッチにコースを記憶させ、ナビを利用して歩いているので、GPX ファイルが欲しい。そこで別のサイトから採ってきてこのマップと見比べながらコース設定した。問題はサイトによって、いろいろなコースが存在することだ。江戸時代の街道をそのまま現在の地図に当てはめているサイトもあり、歩こうとすると道がないのに気づくこともしばしばだった。異なる複数のコースを目の前にしてどちらを採るべきか悩むシーンもあった。結論として「歴史街道」の地図は江戸時代のコースからは外れるところが所々あるものの、それは現在の道路状況を踏まえての変更であり、「歩けるコース」が記載されているので一番オススメできる。
「京街道歩き旅」のスタートはなんの変哲もない普通の道だったが、普通の家の軒先に「道標」や「常夜灯」があるのはまさに「街道」そのものだ。


ゆるやかな下り坂を南西に進むと、前方に高架が見えた。これは「名神高速」と「国道 1 号線」を結ぶ道路である。ここを潜ると「国道 1 号線」に出る。地下道がついているので潜って横断する。進むと「山科川」にかかる「音羽橋」に出た。

「新幹線」の高架手前に道標。「左おおつみち 右うじみち」。左とは来た道のことだ。「大津」から「旧東海道」を進み、「追分」で分かれてここに至る。この先は「宇治」に進む道なのである。

左に「岩屋神社」の赤い鳥居。その先、右側に「岩屋神社御旅所」があった。この場所は「大宅(おおやけ)」といい、「後白河法皇」の「山科御所」があった場所だ。西側は「牛尾山」で、その山麓に山を背に「岩屋神社」がある。祭神は「天忍穂耳命(アメノオシオミミノミコト)」「栲幡千千姫(タクハタチヂヒメノミコト)」「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)」の三柱。「天忍穂耳命」は「天照大神」と「素戔嗚尊」の誓約で生まれた五皇子の長男で、「栲幡千千姫」との間に天孫降臨神話の「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」が生まれた。「天津彦根命」の子に「天照国照彦天火明尊」がおり、「物部氏」の祖「饒速日命」と同神とする場合もある。どうやらこの神社「物部氏」と関係が深そうと考えていたら、この辺りを支配していた豪族「大宅氏」は「物部氏」と同族だったらしい。


この先「名神高速道路」の手前右に「大宅の一里塚跡」の石柱。

高速道路を越えた先で「県道 36 号」から右の「県道 35 号」に移る。ここは「小野」。「小野氏」が住んでいた土地である。「琵琶湖」の西岸にある「小野」(かつての近江国滋賀郡小野村)が「和珥氏」から分岐した「小野氏」の根拠地であったことは前に書いた。時代が進んで、勢力を南に伸ばしてきたというわけだ。「京都」では「山城国愛宕郡小野郷」(八瀬から大原一帯)と、ここ「宇治郡小野郷」(京都市山科区小野)に所領があった。この辺りは「小野小町」の出身地だという。そのゆかりのお寺がこれから行く「随心院」だ。「京街道」はその手前で「地下鉄東西線小野駅」の方に右折するのだが、お寺に行くために直進する。
「随心院」は真言宗善通寺派の大本山で、「仁海僧正」が正暦二年(991)に開いたお寺で、古くは「牛皮山曼荼羅寺」と称されたらしい。ちょうど梅の季節なので、「総門」の横に「観梅会」の看板が立っていて賑わっていた。門前の右側に「梅園」があって、300 円支払えば入ることができる。梅は後にして、まずお寺に入ってみよう。
総門からまっすぐ進んだ拝観入口の前に「小野小町歌碑」があった。「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」。これは有名な歌だ。

この時期、「能の間」は花に覆われ、「極彩色梅匂小町絵図」が公開されている。


作品は左から「生誕の図」「饗宴の図」「伝承の図」「夢幻の図」の 4 部構成となっていて、
「生誕の図」は「小野小町」が出羽の国(秋田県)で生まれ、生活される様子を描き、「饗宴の図」では仁明天皇のもと宮仕えをされる様子、「伝承の図」では宮仕えを辞し山科小野の里でお過ごしになられる様子、「夢幻の図」では山科小野を出て諸国を放浪される様子が描かれている。この「出羽の国に生まれる」という話、詳しくは「出羽国福富の荘」(現在の湯沢市小野字桐木田)に生まれたという伝承なのだが、『世界大百科事典』には「小町の生地と墓は全国にあり、〈瘡の歌〉などの伝説は和泉式部伝説と重なるところも少なくないところから、小町の生涯を語り歩く唱導の女たちがいたことが考えられる。また小町伝説の流布には、全国にひろがる神官の小野氏の存在も無視できない」と書かれていて、真実かどうかは分からない。前に書いた「小野氏と朝日姫の話」とも重なるものである。
「大玄関」を見た後、「梅園」に行ってみる。

約 200 本の梅があるらしい。ちょうど満開、いい香りがたちこめていた。


「随心院」を出て来た道を少し戻り、左折して「地下鉄東西線小野駅」の上を歩いて行くと、「山科川」を越えた先に、真言宗山科派の総本山「勧修寺(かじゅうじ)」があった。ここは「醍醐天皇」が母「藤原胤子」の菩提を弔うために創建した寺。江戸時代に再興されてからは法親王が暮らす門跡寺院となった。

「宸殿」は元禄 10 年(1697)「明正天皇」の旧殿を賜り移築したもの。「山階宮晃親王」(1816~1898)の筆になる「明正殿」の扁額を掲げている。

氷室池の先の「観音堂」は昭和 6 年(1931)の再建。

「勧修寺」から先はしばらく「名神高速道路」に沿って進む。「伏見稲荷社」のある「稲荷山」と「大岩山」の間の谷を行くのだが、とくにとりあげるものはない殺風景な道だった。「JR 奈良線」の手前で左に「深草」の町の中に入っていく。「奈良線」の線路を越え、線路と並行に進むと「藤森駅」の手前右側に「西福寺」。


「藤森駅」の前で右折、進むと「藤森(ふじのもり)神社」の標識が右にあった。『新撰和歌六帖』に「紫の雲とよそにて見えつるは 木だかき藤の森にぞありける」という歌があるので、この辺りは藤の生い茂った森だったのだろう。参道を進むと「神楽殿」の向こうに「本殿」があった。


ホームページには「社は、今から約 1800 年前に、神功皇后によって創建された皇室ともゆかりの深い古社です。本殿は正徳2年、中御門天皇より賜ったものです。特に当社は、菖蒲の節句発祥の神社としても知られ、今日では勝運と馬の神様として、競馬関係者(馬主・騎手等)、また、競馬ファンの参拝者でにぎわっております」と説明がある。祭神は「素戔嗚尊」をはじめ十二柱と多い。
街道に戻り、「京阪電車」の線路の前を左に進むとすぐ「墨染(すみぞめ)」の駅。吉田東伍「大日本地名辞書」に「伏見町の北部深草村に接する辺りを云ふ。日蓮宗欣浄寺あり」とある。名前の由来に関しては「寺中墨染と号する古桜あり、地名之より出づ。按ずるに墨染とは、古今集の名句を典故とす」と書き、次の歌を上げている。「深草の野辺のさくらし心あれば この春ばかり墨染にさけ 上野岑雄」。
右折して線路を渡り進むと川にでた。と思ったらこれは「琵琶湖疏水」。街道は「墨染寺」の先を左折。このお寺の隣が「墨染」の名の由来となった「欣浄寺」だったが、それとは知らず先に進んでしまった。

伏見宿
「京町通り」と呼ばれる「県道 35 号線」を南下する。もう「伏見宿」に入っているようだ。「月桂冠のホームページ」に「不死身の伏見」という記事がある。その中に、「元和 9 年(1623 年)になると、伏見城が廃城となり、伏見の大名屋敷も次々と駿府や江戸に移され、多くの町人たちも京や大坂への移住を始め、さしもの伏見も一時は火の消えたような淋しさになっていった。こうしたなかで、伏見城の外堀であった宇治川派流に架かる京橋界隈は、京・大坂を結ぶ港町としての繁栄を始めたのである。もともと伏見は大城下町であっただけに、東は『伏見街道』の京町通りから、西は高瀬川、北は墨染、南は宇治川に接し、東西 1 キロ、南北 4.6 キロというきわめて大きな『宿』へと生れかわったのである」とかつての宿場の範囲を示しているのだ。宿場の概要はつぎのとおり。
- 所在地:山城国紀伊郡(京都府京都市伏見区南浜町など)
- 江戸・日本橋からの距離:127里14町7間
- 宿の規模:家数6245軒、本陣4、脇本陣2、旅籠屋39
- 宿の特徴:京都の南側、宇治川に沿う宿場町。京・奈良・大阪からの道がここで合流。さらに宇治川の河港として、物資輸送で繁栄した。
右手に「橦木町(しゅもくまち)廓入口」と書かれた石柱が建っている。かつてここに「遊郭」があった。開設は慶長 9 年(1604)。伏見の発展と共に元禄期(1688~1704)に全盛を迎え、赤穂浪士を率いる大石内蔵助良雄が敵方の目を欺くため、ここで遊興したことで知られているそうだ。この遊郭は昭和 33 年(1955)まで続いた。また、『東海道宿村大概帳』では「人馬継問屋場弐ケ所」がここ「撞木町」と「六地蔵札の辻」に置かれていたとされている。

国道を過ぎ、一本西側の「両替町通」が街道になるが、「丹波橋」の駅のところで更に西の「竹中町通」に移り、さらに「板橋幼稚園」の先で右折して、「南部町通」に移動。ジグザクもいいところだ。通りの左側に「金札宮」という神社があった。『日本歴史地名体系』によれば、「祭神は天太玉命。旧村社。社伝によれば、清和天皇の時代に橘良基によって阿波国から勧請されたとか、あるいは天平勝宝二年(七五〇)の創立ともいう。白菊井という香水の所在から尊崇されるようになり、久米村(現伏見区)の産土神としての長い伝統をもつ。伏見九郷中の有力な神社で、同村の住人金松氏が代々社職を継いできたが、後醍醐天皇の時代に社司の金松弥三郎が本願寺第三代覚如に帰依して性空坊了源と号し、境内に久米寺を建立したという。久米寺は文和四年(一三五五)西方寺と改められたが、豊臣秀吉の伏見城下町(現伏見区)造成によって、久米村民も西方寺も、外堀の西方久米町(現同区)の辺りに移転させられ、金札宮は伏見城中に移された。徳川家康の時代になって、喜運が鷹匠町に喜運寺を創建するに及び、寺の境内に金札宮を復活させたという」となっている。

さらに「南部町通」を南下する。前に商店街のアーケードが見えてきた。これが「伏見大手筋商店街」で、左に行けば「京阪伏見桃山駅」と「近鉄桃山御陵前駅」がある。以前、「奈良」に単身赴任していたとき、飲み会といえば「伏見」だった。「近鉄京都線」の「桃山御陵前」で降りて、酒造が立ち並ぶ「伏見」の町にくりだしたものだ。「京街道」は商店街を突っ切る。その交点がこの日のゴールだ。


16:07 にゴール。この日の歩行距離は 15 キロ、時間にして 3 時間 57 分だった。

