西国街道・山陽道歩き旅(2)芥川宿~郡山宿~瀬川宿~石橋阪大前(2025.1.21)

 昨日は「旅館かめや」にチェックイン後、夕食までの時間を使って「上宮天満宮」にお詣りにいった。ちょっと、そのときのことを書いておこう。鳥居のあった交差点を北上すると「天神一丁目交差点」に出る。ここに「天満宮」の参道があった。写真の階段だ。丘陵地にある神社へは「二ノ鳥居」をくぐり、この階段を上がらなければならない。

写真1 天神一丁目交差点

 その上がりきったところが「本殿」。「天神様」の梅の紋がある社殿はとても新しかった。

写真2 上宮天満宮本殿

 お詣りを済ませて階段を下りていくと、管理センターのところに由緒を示す説明板があった。

               上宮天滿宮
御祭神
武日照命
野見宿禰命
菅原道真命

由緒
 日の神、武日照命の天降って鎮座された此れの太古の杜、日神山一帯は弥生人の住居跡として銅鐸も出土し、南北に並ぶ四古墳のうち、中央の円墳上には式内古社の野身神社が在る。此地は「日本書記」が古代祭儀としでの埴輪や相撲の逸話を記した野身宿禰を千数百年も前から斎き祀ってきた島上郡野身里である。彼の率いる祭祀者一族、土師氏は何百年か後に菅原道真、大江匡房始め平安時代に於ける史学、文芸学者たちを次々に生み出すが、殊に右大臣にまで昇った道真公は、然しその後天皇廃立に関わったとされ九州へ追放される。その死後百年近い頃、正暦四年(九九四)に正一位左大臣の位を遺贈する動使として菅原為理が太宰府へと赴いた。御霊代など奉じての帰途、芥川を遡り当地の上田部(市役所西)に上陸し、領主近藤氏の城館に宿った。ところがいざ出立となると輿が動かず、これを先祖と共に共に留まりたい霊意と拝察して、里人が日神山上に天満宮本殿を造営し改めて三神を併祭し奉った。実際の創建はこれより五十年も早く、京都北野社鎮座以前であり、全国天神社のうち二番目の古社とされている。 戦国の天正年間、豊臣秀吉は当社参道「天神馬場」に本陣を置き、明智勢を山崎天王山に討った。その戦勝を感謝して、後に秀吉は社殿を美々しく修造する。これは平成八年に事故により失われた。
 江戸初期には高槻藩王永井直清が拝殿を設け大鳥居を建立、時の天台座主親王天松院宮策の神様を奉納した。
 古来、近郷の三島地方はもとより遠く京都、大阪始め北摂能勢や北河内方面の崇敬を集め今に至る例祭「初天神」は、延々と露天の運なる京阪神きっての民衆的大祭である。

 これを読んでビックリ! なんと前回「羽束師(はつかし)」のところで書いた「野見宿禰」がでてきたのだ。でてきただけではない、ここに書かれている「野見神社」のある古墳が「野見宿禰」の墓とされているのだ。実は「野見宿禰」の墓は各地にあり、ここが本命とはいいがたいのだが、いずれにしてもこの地に「土師氏」の集団が住んでいたのは間違いない。「上宮天満宮」の主祭神は「武日照命(タケヒナテル)」、別名「建比良鳥(タケヒラトリ)」「天夷鳥(アメノヒナトリ)」で「出雲臣」の祖「天穂日命」の子。この名前で思い出されるのが、この系列が関東にも進出しているのことだ。「武蔵」「上海上」「下海上」「菊間」「千葉」の国造がそうである。私が住んでいるのは「千葉県市原市」だが、近くの「上海上」「菊間」、隣の「千葉」の国造が「天穂日命」の後裔とされている。詳細は「千葉県ぐるっとウォーキング」に書いた。「武蔵国造」についても「旧東海道歩き旅」の「戸塚」の項で書いている。

写真3 式内野見神社(上宮天満宮ホームページから)

 さて、ここまで書いた後、「天穂日命」について調べようと大和岩雄氏の『日本古代試論』を開けたのだが、「古代出雲考」の章に「簸川平野開拓に従事した畿内の土木技術集団」という項があるのが目に入った。この本、昭和 49 年の発刊の古い本だが、古代史を独自の視点で描いた優れた本だ。それによると「河内」「摂津」地方にいた出雲系の「開拓・築堤技術集団」が畿内の工事で培った技術を使って、「西出雲」に進出し「斐伊川」の改修を行ったという。前回紹介した『日本書紀』「垂仁紀」の記事から、私は「野見宿禰」が「斐伊川」の改修を行ったのち、「出雲」から「畿内」にやってきて「淀川」の改修を行ったものと思ったのだが、その逆らしい。この技術集団は二派あり、ひとつは「天津彦根命」を奉じる「凡河内(オオカワチ)氏」を中心とするもの、もう一派が「天穂日命」を奉じる「出雲臣」「土師氏」らの集団だという。この二派はいわば親戚関係で仲良く協力しあっており、「神武天皇」の子の「神八井耳(カムヤイミミ)」を祖とする「多(オオ)氏」とも関係が深い。そしてこの集団が関東にも進出したとしている。確かに「河川改修」はべらぼうな資金と人手を要する力仕事であり、「中央政権」の力なしでは達成できるものではない。だから、まず「畿内」それから「地方」という順番は納得できるものだろう。『播磨国風土記』では「野見宿禰」が「兵庫県辰野」で病にかかり死んだとする。ここから大和氏は「『垂仁紀』の出雲から来た野見宿禰の話は、逆に出雲へ行った野見宿禰と解釈すべきであろう」と主張されている。

 さて、この「高槻」という場所だが、『日本大百科全書』では、「北部は老ノ坂山地で、檜尾川、芥川などの侵食を受け、摂津峡の景観がある。南部は両河川の扇状地と淀川の氾濫原からなる沖積低地で、かつて摂津米の産地として知られた。一帯は古くから開発が進み、安満遺跡や、今城塚古墳、阿武山古墳、闘鶏山古墳(以上すべて国の史跡)など、また嶋上郡衙跡(国の史跡)、伊勢寺、能因法師の塚などがある。中心地区の高槻は近世キリシタン大名高山右近の居城であり、1649 年(慶安 2)以降、永井氏 3 万 6000 石高槻藩の城下町であった。明治末には城跡に第四師団の工兵隊が設営された。その後、城跡は公園に整備され、歴史民俗資料館も開設されている。芥川左岸の芥川は近世西国街道の宿場町として栄え、西部の富田は中世に一向宗富田道場の寺内町であった」と、とてもうまくまとめている。私は学生時代、淀川の対岸に住んでいたのだが、一度、「摂津峡」に行ったことがある。都市部をすぎると急に山深くなり、車で 10 分も走れば「芥川」が作り出した見事な渓谷美を楽しめる。ということで「摂津峡」は知っていたのだが、山に入る手前の丘陵地帯には縄文・弥生遺跡が数々あることや、「茨木市」にかけて「三島古墳群」と呼ばれる日本有数の古墳地域があることは知らなかった。

 この「三島」は、明治の郡制でいう「三島郡」からくる。吉田東伍の『大日本地名辞書』で「三島郡」を引くと、「摂津国の東北偶にして、南は淀川に至り東は山城(乙訓郡)、北は丹波(南桑田郡)に界し西は豊能郡に接す。(中略)古三島県あり国郡制置の初め分割して島上島下二郡と為す。明治二十九年復旧して三島郡の名を立つ。(中略)三島は御島の義にして即島村(今宮島木村大字)を本因と為す」と書かれている。つまり、古代には「三島県」が置かれ、それが「島上」「島下」の二つの郡に分かれ、明治になってもとの「三島郡」に戻ったのである。昨日歩いた「島本町」、そしてこの「高槻」がかつての「島上郡」に属す。今日これから歩く「茨木」「箕面」は「島下郡」だ。そして、この「三島」は「御島」から変化したもので、その初めは「島村」、現在の「茨木市島・野々宮・宮島」あたりだという。「安威川」のほとりで「溝咋神社」や「三島鴨神社」が近い。どうして、こんなことを書くのか? それは今回の「歩き旅」を続けるうちに明らかになるだろう。

芥川宿

「西国街道」の「芥川」沿いに「芥川宿」が現れるのは 13 世紀末葉であったらしい。永禄一一年(1568)、「織田信長」が「芥川城」を攻め、城は滅亡し町場も一時衰退したが、文禄~慶長期(1592 ~ 1615)には西国と京を結ぶ街道上の町場として復興し、江戸期に入ると「脇街道山崎通」の宿駅として発展した。宿場の概要はつぎの通り。

  • 所在地:現 高槻市芥川町二~四丁目
  • 位置:東は山崎宿まで二里、西は郡山宿まで二里。
  • 規模:家数 253、本陣 1、脇本陣 0、旅籠屋 33(山崎通宿村大概帳)
  • 特徴:16 世紀初めに管領細川氏の摂津支配の拠点として芥川山城が築かれる。江戸期には宿場町として賑わった。宿場の範囲は芥川一里塚跡より西側、芥川橋までの約 400 メートル。

 7:58 に女将さんに見送られて「かめや」を出発。「今日は寒いので風を引かないように」と、やさしい声をかけてもらった。部屋は古いが、なかなか快適だった。女将とも会話を楽しんだ。ホテルだとこうはいかない。今日は晴れるとの予報、気温は 7 ℃。「かめや」の裏口を出て、街道を進むとすぐ左折して「芥川商店街」の西の入口前に出た。

図1 芥川宿~郡山宿行程(数字は写真番号)
写真4 かめや裏口の通りを進みすぐ左折したところ、左が芥川商店街の通り

 ここに「芥川一里塚三宝大荒神」があった。説明板には「三宝荒神は、仏・法・僧(仏陀とその教え、出家者の集まり)という仏教の三宝をまもり、災いや穢れを退ける神仏習合の守護神です。『日本書紀 』では素盞鳴尊が荒神とされ、修験道の開祖・役行者が感得したともいう伝説がある我が国独自の神様です」と書かれていた。ここが「芥川宿」の入り口である。

写真5 芥川商店街西の入り口
写真6 芥川一里塚三宝大荒神

 「芥川宿」を歩くが、特に「本陣」などの表示はないようだ。

写真7 芥川宿の通り

 右側に「子宝地蔵尊」。

写真8 子宝地蔵尊

そこを過ぎるとすぐ「芥川」の前に出た。ここで宿場は終わり。8:07 だったので、所要時間、わずか 9 分。

写真9 芥川

芥川宿~郡山宿

「芥川」の右岸、「西国街道」から少し北に行ったところに「嶋上郡衙跡」や「芥川廃寺跡」があったのだが、はっきりとした標識がなかったような気がする。あるいは、気づかずに素通りしてしまったか…。気になったのは、自転車の大群だ。こちらに向かって次から次へと押し寄せてくる。街道特有の狭い道路をかなりのスピードを出して走る。それも二列で話しながらは当たり前、三列で走ってくる連中もいる。恐ろしいことこの上ない。通勤・通学時間だ、みんな「高槻駅」に向かって急いでいる。

 右手に道標があった。これは明治に作られたもの。写真の南面は「右 芥川 山崎 京都、左 豊中 池田 神戸」と書かれている。東面には「右 石川 見山 妙見道」とあるようだ。「妙見」とは「能勢」の「妙見宮」のこと。ここはまた「今城塚古墳」の入り口でもある。古墳時代後期 6 世紀前半に築造された王陵級の壮大な前方後円墳、その被葬者については後ほど述べよう。さらに北には 3 世紀後半から 5 世紀中頃の 「弁天山古墳」があり、こちらはこの時期「三島」地域を支配した「三島県主(あがたぬし)」一族の墓とされる。

写真10 妙見道追分の道標

 そこから 20 分ほど歩いた先の右手に「太田茶臼山古墳道標」があった。すでに「茨木市」に入っている。古墳時代中期中葉(5 世紀中葉)頃の築造の前方後円墳で、宮内庁により「継体天皇三嶋藍野陵」とされるが、「継体天皇」の没年とされる 531 年より 100 年古く、またこの場所は「島下郡」で、『延喜式諸陵寮』などの史書に書かれている「摂津国島上郡」ではないことから、「島上郡」の「今城塚古墳」を「継体天皇陵」とする説が有力視されている。では、誰の墓なのだろう? それに対する答えはまだない。

写真11 太田茶臼山古墳道標

 どうして「三島」の地に「継体天皇陵」があるのだろうか? 第 26 代「継体天皇」、本名「ヲホドノオウ(男大迹王、乎富等王、古事記では袁本杼命)」は謎が多い天皇である。『日本書紀』には前代の「武烈天応」に跡継ぎがいなかったので、「越前」の「三国 」(『古事記』では「近江」)から迎え入れたとある。『記紀』では「応神天皇」の 5 世の孫とされるが、その間の系譜が明らかにされていないので、天皇が別系から出て旧権力を倒し、新王朝を開いたとする「王朝交替説」も出ているくらいなのだ。507 年、「樟葉宮」で即位したときにはすでに 58 歳。511 年に筒城宮(現京田辺市)、518 年に前回書いた「弟国宮」に遷都したのち、 526 年に「磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)(現奈良県桜井市)」に遷り、5 年後になくなったとされる。なんと即位から 20 年間はヤマトに入らなかった。在位した時期は朝鮮半島の「任那 4 県の割譲問題」や北九州の「筑紫国造磐井の乱」の平定など動乱が続いた時代であった。

 注目すべきは、「近江」をはじめ、「樟葉」「筒城」「弟国」と「淀川水系」の地で政治を行っていることだ。森浩一氏は『記紀の考古学』の中で、「当時の中国や朝鮮半島での国都は、ほとんどが大河のほとりにある。黄河と洛陽、長江と南京(建業)、鴨緑江と集安、大同江と平壌、白馬江と公州や扶余、洛東江と高霊などその例はすこぶる多い。このことは、新しい国際関係に目ざめていたヲホド王の一つの実践だと見ているし、別の意味では、淀川水系を重視した桓武天皇の長岡京や平安京の先取りといってもよかろう。大きな川ぞいに都をおくということは、当然河川交通があったからである」とし、近畿入りに際して「山代の隼人集団」「枚方の漢人」「渡来系百済人」の支援をうけたのだろうと書いている。

 では「三島」はどうか? 気になるのは長年この地を支配してきた「三島県主」との関係である。「三島県主」とはいったい何者だろうか?『新撰姓氏録』の右京神別上には「三島県主」後裔の「三島宿禰」が「神魂命十六世孫建日穂命之後也」とあり、山城国神別にも「賀茂県主 神魂命孫武津之身命之後也」と記されていることから、「三島県主」と「賀茂県主」は同祖で、「神魂命」の後裔であることがわかる。

「神魂命」を『國學院大學 神名データベース』で調べると、「神産巣日神(カムムスビノカミ)」の別名とある。この神について要点をまとめると、① 天地初発の時に、高天原に出現した別天神の第三。「天之御中主(アメノミナカヌシ)神」「高御産巣日(タカミムスビ)神」と合わせて「造化三神」とも称される。②「 少名毘古那(スクナヒコナ)神」の親神であり、「大国主神」に対して、「少名毘古那神」と協力して国を作り固めるよう命じた。③ 出雲との関係が深い。『古事記』では、出雲系神話と称される部分に登場し、出雲の神々に対して援助や命令を与える働きを担っている。これは、高御産巣日神が皇室に関わる神で、天神や天孫に司令を授ける働きをしていることと対称をなす。④『古事記』と『出雲国風土記』とどちらにおいても、天と海とに関わっていることが指摘されており、元来は西日本の海沿いの地域で信仰された海の神であり、天の要素は後に加わったものとする説もある。

「三島」を考える時、④の「元来は西日本の海沿いの地域で信仰された海の神」という部分に意味があるように思う。

「三島県主」の祖の「建日穂命」についてはよくわからない。一方の「賀茂県主」の祖の「武津之身命」は別名「賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)」で京都の「下鴨神社」の祭神。またの名が「神武東征」に際して先導役を務めたとされる「八咫烏(やたがらす)」だ。「日本サッカー協会」のシンボルマークにもなっている。さらに、「三島溝咋耳(ミシマノミゾクイミミ)」と同じとも考えられている。

 ここから 6 キロほど南に行った「淀川」の川辺に「三島」と「鴨(賀茂)」の両方を冠する「三島鴨神社」がある。神社のホームページには「創建: 仁徳天皇は河内の茨田(まんだ)の堤をおつくりになるとともに、 淀川鎮守の神として、ここ摂津の『御島』に、大山祇神をお迎えになりました。(それ以前に事代主の后達が三島の地に戻った頃、あるいは御子達がヤマトに移る際に創建されたのではないかとも考えられる。)『御島』とは淀川の『みしまえ(三島江)』にある川中島のことで、このあたりは淀川でもっ とも神妙幽玄な景観をもっていました。ここは古代の『玉川湖沼』(仮称)が淀川にながれこむ入江『玉江』(三島江の別称)にあ って、島は淀川本流に、玉川水路が出させた土砂が堆積したもので、玉川の土砂をもって、できたゆえに『御島』とあがめられたのです。当社はもとは、『御島(三島)の社』とあがめられ、淀川の鎮守であるとともに、農耕を守り王都難波を守護する神として、祈りつづけられてまいりました」と書かれている。その後に記載されている略年譜にはいろいろな情報が入っていた。まず、創建(300 年代中葉・古墳時代初期)時には「唐崎」のあたりにいた「物部の韓国連」が協力したらしい。つぎに「継体天皇」の時代に、「三島の王族 縣主となり赤大路に三島鴨神社 馬場に溝咋神社 その対岸上流に上宮をつくる」こと。また、「摂津御島の三島社を分社して、伊豫越知郡に「大山祇社」、伊豆賀茂郡に「三島神社」ができ、日本三三島として崇敬されはじめる」と『伊予国風土記』の記事もある。この「伊豆賀茂郡の三島神社」は「旧東海道歩き旅」で訪れた「静岡県」の「三嶋大社」ではなく、その元となる神社のことである。

 ここに名前の出た「溝咋神社」は「三島溝咋耳」一族を祀っており、『大日本地名辞書』では祭神を「三島県主の祖」としている。現在は、主祭神「玉櫛姫命」「媛蹈鞴五十鈴媛命 」、相殿神「溝咋耳命 」「天日方奇日方命 」「速素盞鳴尊」「天児屋根命 」の六柱である。『日本書紀』の「神武紀」に、「神武天皇」が東征した後、「事代主(コトシロヌシ)神」と「三嶋ミゾクイ耳」の娘「玉櫛媛」との間にできた「ヒメタタライスズヒメ」を后とする話がある。「事代主」は「大国主」の子、「大国主」と「スサノオ」の関係は『古事記』『日本書紀本編』『日本書紀一書』で異なっていて、「大国主」が「スサノオ」の数代後の子孫であったり、直接の親子であったりするのだが、血縁であることは間違いない。「天日方奇日方命 」は「ヒメタタライスズヒメ」の兄。ということで、「溝咋神社」の現在の祭神は「天児屋根命」を除き、「ヒメタタライスズヒメ」の親族のオンパレードになっている。

 谷川健一氏は『青銅の神の足跡』の「第三章 海人族の系譜」の中で、「ミゾクイというのは、田んぼの排水溝を矢板でとめて守ることを意味するものであろう。要するに弥生時代このかたの古代の農業技術の一つをあらわす。ヒメタタライスズヒメのタタラは炉に風を送るフイゴ装置とみるのが通説である。神武帝はこのヒメタタライスズヒメを正妃として容れ、二人の息子を生んだ。兄は神八井耳命であり、弟は神渟名川耳である。(中略)ミゾクイ耳といい、また神武の二子といい、ここに耳の名がはっきりと記されている」と書いている。谷川氏はこれに先立ち、同書の「序章 耳と目の結婚」で興味深いことを書いている。長くなるのだが、重要なので引用しておきたい。

 南方文化を担う種族の象徴的な名であるアマテラスの子にアメノオシホミミがあり、一方、北方文化を担う種族の象徴的な名であるタカミムスビの神の子にタクハタチヂミヒメがいて、この両者が婚姻した結果、天孫のニニギノミコトが生まれたと『日本書紀』は告げる。ここに南方と北方の両文化の最初の結合がなされたことが示されている。そしてここで、アマテラスの子にアメノオシホミミという、ミミの名のつく神がいることに注目しよう。この神が男子であるということはアマテラスの直系の男子が日本の支配者であることを力説するにほかならないが、それは北方渡来の支配者がタカミムスビではなく、アマテラスを祖神とあおぐことになった「すりかえ」の第一歩である。それにもかかわらず、アメノオシホミミには南方渡来の痕跡が歴然とみとめられる。それはこの神にミミの名がつけられていることである。

 本居宣長は『古事記伝』の中で、ミミはミとおなじであり、ミと書いてミミを意味すると述べている。(中略)こうした視点に立って、この皇室の系譜をながめると興味ある事実が見付かる。それは皇室の系譜にミまたはミミの名のつく神名人名が集中していることである。これは一体何を物語るものであろうか。通説のように貴人の尊称としてだけでは片付けられない事情の伏在することがそこにほのめかされていると私は考える。

 ニニギノミコトは南九州の吾田のコノハナサクヤヒメと結婚してヒコホホデミを生む。ヒコホホデミは海神の娘のトヨタマヒメをめとり、ヒコナギサウガヤフキアエズを生む。ヒコナギサウガヤフキアエズはトヨタマヒメの妹のタマヨリヒメをめとり、カムヤマトイワレヒコホホデミを生む。これが神武天皇である。この結婚は、すべて女が海神族であるという特色をもっている。そして海神族には、オオヤマツミとかワタツミとかミのつく名前がある。このミのつく海神族の娘と結婚するたびに、ヒコホホデミとかカムヤマトイワレヒコホホデミとか、ミのつく男子が生まれる。そればかりではない、神武帝もまた吾田のアヒラツヒメをめとって、タギシミミやキスミミを生む。さらに三島のミゾクイミミの孫娘のヒメタタライスズヒメをめとってカムヤイミミやカムヌナカワミミを生む。カムヌナカワミミは第二代の綏靖天皇である。その子のシキツヒコタマデミは第三代の安寧天皇であり、その子のオオヤマトヒコスキトモ(ミミ)は第四代の懿徳天皇である。このようにしてミおよびミミの名のつく人名は神武帝を中心にして四代前にさかのぼり、四代後までおよんでいる。(中略)

 つまりこれらは南方文化の色濃い種族の女たちである。この女たちと婚姻するたびにミおよびミミの名のつく子が生まれるというのは、その子が母方の南方系種族のシンボルをとってミおよびミミのつく名前をもったことを示すものである。つまり母方のしきたりにしたがったのであるが、それは母方で子供が養育されたことを示すばかりでなく、母系制を示す標識とも考えられる。(後略)

 摂津の三島はおそらく、もっともはやく開けた場所であったのだろう。舟で瀬戸内海を西に進むとこのあたりに出る。縄文時代、南方の海神族がこの地に流れ着き、近くの丘陵に住み着いた。北部にはその痕跡がたくさん残っている。彼らは何家族もあったのだろう。それを総称して「オオヤマツミノカミ」と記したものと思われる。「神魂命=カミムスビ」も「元来は西日本の海沿いの地域で信仰された海の神」とされるので、「オオヤマツミノカミ」と同じかもしれない。弥生時代になっても、この地には多くの渡来者があった。彼らはこの地に住み着き、婚姻によって混合していく。その中には、後に「ヤマト王権」を形成する大王家もいた。彼らは海神族の「三島ミゾクイミミ」の一族と婚姻関係を結び、「ミゾクイミミ」は「八咫烏」として「ヤマト」への道を先導する。「淀川」対岸の「枚方」からはヤマトに向かう「磐船街道」があることは「京街道歩き旅」で書いたとおりだ。この地に残った一族には「三島県主」のカバネが与えられ、この地を支配することになった。「淀川流域」を根拠地とした「継体天皇」とも良好な関係を築いたのだろう。「継体陵」がここに作られたのも、彼らの働きかけがあったためではないか。「三島県主」の一族だけではなく、ここには「出雲系一族」や朝鮮や中国からの「渡来人」も住み着き、文化地帯を形成していたと思われる。「須恵器」を作る高温焼成技術ももたらされた。そのためにフイゴも使用されていた。「タタラ」の名がそれを物語る。「太田」という地名は中国の「呉」の「勝(すぐり)」一族が住む土地の名前だという。さらに「溝咋神社」の相殿の祭神の「天児屋根」。「中臣氏」の住む「児屋郷」もこのあたりにあった。『大日本地名辞書』で調べると、「和名抄、島上郡児屋郷。今、富田村附近なるべし。(中略)溝咋村島宮村等なり。按ずるに中臣藤原の遠祖を天児屋根命と曰ふ此の児屋郷児屋根は地名人名相因む所あるべし、河辺郡に昆陽に作る。また児屋郷は三島郡の本拠にして、日本書紀『皇極天皇三年中臣鎌子、称病退去三島』とあるは此なり」とある。「河辺郡昆陽」は明日、歩くところ。そして、「中臣鎌子」のくだりはこの後に述べる。

 さて、街道歩きに戻ろう。「太田茶臼山古墳道標」からすぐ先の右手に「太田神社」の参道があった。道の両側に常夜灯が立っている。この神社、「太田茶臼山古墳」に接した西側にある。

写真12 太田神社参道

 現在の祭神は「天照皇大神」「速素盞鳴尊」「豊受皇大神」の三柱だが、『大日本地名辞書』は「姓氏録『摂津神別中臣太田連、天児屋根命十三世孫御身宿禰之後也』ともあり」と「中臣太田連」の可能性を示している。ここから北の丘陵の上に「藤原鎌足(中臣鎌子)」の墓とされる「阿武山古墳」もあり、ここは「中臣氏」と関係が深い土地なのだ。『地名辞書』にあった『日本書紀』の「皇極天皇三年中臣鎌子、称病退去三島」の記事、「藤原鎌足(中臣鎌子)」は政治から身を引き「三島」の地に引きこもるのだ。その後に「蘇我入鹿暗殺事件」である「乙巳の変」がくる。首謀者である「鎌足」はこの地でその作戦を練っていたものと思われる。この「中臣太田連」だが、この先の「安威(あい)」を根拠とする「中臣藍連」も『姓氏録』に見える。いわゆる「複姓氏族」である。「中臣氏」の名がたっぷり出てくるので、このあたりが本拠地かと思わせるが、『高槻市史』によると、ちょっと事情は違うようだ。「氏姓を二つ重ねて氏族名とするものには、中臣氏を筆頭に、阿部・大伴などの有力氏族にみられ、下半部にその地の地名をもつものが多」く、「彼らが事実上、上級氏族と血縁関係にあったのではなく、なんらかの意味で、上級氏族に対して、隷属的な関係があったことを示すもののようである。そうとすれば、中臣氏が三島の中小首長たちといつの時期か統属関係をもったことになるわけである。このような復姓氏族は、史料的には奈良朝以前にさかのぼるものごくまれであり、従って統属関係が事実上成立した時期は、七世紀中葉をさかのぼるものではなかろう」と論じており、「鎌足」以後、力を持った「中臣氏」がこの地に進出して来たのだと思う。

「太田」の町を抜ける。通りは街道らしい雰囲気が残っている。

写真13 太田附近の街道

「安威川」の手前の右側に「太田不動尊」、ここに「太田一里塚」もある。

写真14 太田不動尊(太田一里塚)

歩道橋を使って「安威川」を渡る。

写真15 安威川

 街道は「名神高速道路」を潜り、その北側に出る。「府道 46 号」を越えた右側に「阿為神社御旅所」。「中臣藍連」を祀る「阿為神社」はかなり北にある。

写真16 阿為神社御旅所

 このあたりの地名はなんと「耳原」! ここにも「ミミ」があった。「茨木川」の手前、街道から北に「耳原公園」があり、そこで休憩しようかと思ったのだが、すぐ北にあるのは墓地。その向こうに公園があるのか歩きかけたが、ちょっと時間がかかりそうなので断念し、先に進むことにした。橋の手前に「白井河原合戦跡」の説明板。「織田信長」の「摂津攻略」の際に「荒木村重」「中川清秀」の 2500 余騎と「織田勢」500 余騎が戦ったところだそうだ。

写真17 耳原墓地

「茨木川」を渡る。

写真18 茨木川

「府道 110 号」を越えたところに「交通の要衝中河原」の説明板があり、「中川清秀由緒地」の石柱と道標が立っていた。9:37 ここでしばらく休憩。ここは「古代山陽道・西国街道」と「亀岡街道」の交差する地点。「中川清秀」は先ほどの「白井河原の合戦」で名前がでてきた「茨木城主」でこの場所で生まれたとされる。

写真19 中河原の道標

 先ほどの「茨木川」が「勝尾寺川」と名を変えて街道の北を流れている。川端に出たかと思うとすぐ離れ、また川のそばに戻ってきた。橋の手前、「郡山宿本陣」の標識のところで左に入る。ここが「郡山宿」の入り口。10:03、「郡山宿」に入った。

写真20 郡山宿入り口

郡山宿

 宿場の概要はつぎの通り

  • 所在地:現 茨木市宿川原町
  • 位置:東は芥川宿まで二里、西は瀬川宿まで二里。
  • 規模:町並は東西八町半余、家数 110 、本陣 1、脇本陣 0、旅籠屋 29(山崎通宿村大概帳)
  • 特徴:山崎~小浜・西宮間の重要な拠点であり、旅籠数は西宮宿・芥川宿に次いで多い

「郡山」の名前はこの南にある「郡山城」によるのだろう。城主は「郡正信」で「高槻城」城主「和田惟政」の家臣である。「郡山宿」の範囲は西の「宿川原橋」から東の「山下橋」までで、間の「新鍛治屋橋」(かつての「中川原石橋」)で東町と西町に分けられた。

図2 郡山宿マップ(茨木市「本陣周遊マップ」)

 入っていくと、すぐに右手に「本陣」がある。「西国街道」で唯一現存する本陣らしい。説明板には「京都と西宮を結ぶ西国街道沿いには、かつて山崎・芥川・ 郡山・瀬川・昆陽の五つの宿駅があり、郡山宿本陣は、その中央にあって重要な役割を果たしていました。この本陣は、享保三年(一七一八年)に類焼にあって、建物とともにほとんどの古記録が焼けてしまい、現在の建物は、享保六年(一七二一年)に、西国諸大名などの寄付 によって再建されたものですが、このような形で現存するのはここだけです。建物としては、母屋二棟・土蔵三棟・納屋一棟・茶席一棟で、居間数は、茶席を含めて二十五あります。また、焼ける前の元禄九年(一六九六年)の宿帳(宿泊者名簿)をはじめ、和時計・関札・駅鈴・古文書・火縄銃・銃丸製造具などが数多く残っています。 残された宿帳から、摂津・備前・中・美作・四国の讃岐などの大名や、忠臣後で有名な赤穂城主 浅野内匠頭長矩が宿泊し、また慶応元年(一八六五年)七月十五日に、明治天皇がお立ち寄りになっています。この正門の脇に椿の大樹があり、見事な五色の花を咲かせたことから、いつしか『椿の本陣』と呼ばれるようになりました。昭和二十三年十二月十八日に、国の史跡に指定されています」と書かれていた。是非、見たかったのだが、残念なことに「現在 国史跡郡山本陣の見学は中止しております」と書かれた張り紙がしてあった。

写真21 郡山宿本陣
写真22 郡山本陣の門
写真23 郡山宿の通り

「新鍛治屋橋」を渡り西町に入ると、左側に「春日神社」の常夜灯、神社そのものは山の手前だ。「茨木市」に九つもある「春日神社」の一つである。祭神は「天児屋根命」「武甕槌命」「経津主命」「比売大神」と奈良の「春日大社」と同じ。「中臣氏」の臭いがプンプンする。

写真24 春日神社の常夜灯

 この先の「山下橋」の手前に「豊川一丁目の道標」。10:25 に「勝尾寺川」を渡り「郡山宿」を出た。

写真25 豊川一丁目の道標

郡山宿~瀬川宿

図2 郡山宿~石橋阪大前行程(数字は写真番号)

 目の前に現代建築物が現れた。駅、それもモノレールの駅である。「茨木市」北部から「箕面市」東部にかけての丘陵地に「彩都(国際文化公園都市)」が作られた。第一期町開きが2004 年だから 20 年以上は経過した。足として、「阪大病院前」まで来ていた「大阪モノレール」が2007 年に「彩都西」まで 延伸された。目の前の「豊川駅」は「阪大病院前」と「彩都西」の間の駅なのだ。上がって「彩都」方面を眺めた。山の間に街並みが見えている。地図を見ると、舌状台地の東側に古墳群、そして西側がニュータウンだ。古代と現代がきれいに分かれていて面白い。

写真26 大阪モノレール「豊川駅」
写真27 豊川駅から彩都方面を臨む

「箕面市」に入る。「箕面観光ボランティアガイド編」の「箕面の歴史」というホームページがある。それには、「箕面市に隣接する池田・豊中市や、茨木・高槻市には数多くの大古墳がある。古墳時代、池田・豊中辺りは為那国であり、茨木・高槻辺りは三島国であったので、それぞれに大古墳が作られたものである。しかし。その中間の箕面は2つの国の国境地帯であり辺境であったために、極端に古墳が乏しい」と書かれていた。「弥生人たちは、水が豊富で、かつ、土質が細かい粘土層の、大河川の下流の沖積部を好んで選び、そこに、弥生の大集落が作られることになり、やがて、それが古代の『クニ』へと発展する。そして、上流域はそのクニの辺境となる。」なるほど、なるほど、その辺境に現代のニュータウンが作られていく。

「小野原東二丁目」に入り、街道の北側に「春日神社御旅所」。この「春日神社」は少し西南にある「小野原春日神社」だ。「小野原」の街道もなかなか雰囲気がある。

写真28 春日神社御旅所(小野原東)
写真29 小野原の街道

「粟生(あお)新家」に入り、右側に「勝尾寺の大鳥居」。「勝尾寺へ向かう参道は幾筋もありま
すが、西国街道に面した、新家の大鳥居を基点として北へ向かう三十六町(約四 ㎞)の道が表参道です。参道沿いには、寺への距離を示す町石が残されており、宝治元年(一二四七年)に建てられた下乗石から七町石までの八基は、最古の町右として国の史跡指定を受けています。現存する石の大鳥居は寛文六年(一六八六年)に建てられたものですが、古くは鎌倉時代の寛元三年(一二四五年)に木の鳥居が建てられて以来、数度にわたて修理や改築が行われてきました」と説明がある。「勝尾寺」は「箕面」の山中にある真言宗のお寺。小学校の時、林間学校で行ったことがある。おそらく、阪急の「箕面駅」から「大滝」を経て歩いたのだと思う。一泊二日でお寺に泊まり、楽しかった記憶がある。なお、当時(60 年前)の林間学校はお米持参だった。

写真30 勝尾寺大鳥居

「府道 121 号」を越えて「今宮」に入り、右手に「観世音菩薩の碑」。「今宮」とは新しく宮ができたところの意味だが…と調べると、昔は「天満天神社」があり賑わったそうだ。

写真31 観世音菩薩の碑

「国道 171 号線」と合流し、「北大阪急行 箕面萱野駅」に出る。昔は「千里中央」までだったが、2024 年に延伸したらしい。できてホヤホヤの駅だ。ここで 12 時、お昼は回転寿司だった。

写真32 北大阪急行 箕面萱野駅

「萱野」は「古代山陽道」の「草野(すすきの)駅」があったところ。国道から左折して一本南の道に入る。

写真33 萱野の西国街道

 左側に立派な屋敷があった。「萱野三平邸」とある。「忠臣蔵」に「萱野三平」が登場する。四十八番目の志士と呼ばれ、討ち入り前に自害する。この地に生まれ、十三才の時、父の主君の推挙で「播州赤穂藩藩主 浅野内匠頭長矩」の中小姓として仕えた。「松の廊下の刃傷事件」「内匠頭切腹」の後、最初は敵討ちの同士に加わっていたが、父の反対にあい離脱。主君への恩義との板ばさみに苦しんだ結果、ここで自刃し二十八才の生涯を閉じたという。その部屋が保存されている。姓が地名であることからわかるように「萱野家」はこの地の豪族だった。

写真34 萱野三平旧邸
写真35 萱野三平邸自刃の間
写真36 萱野三平邸自刃の間内部

 そのすぐ先、右手に「柴村高札場跡」。近くに一里塚もあったらしい。

写真37 柴村高札場跡

 そのまま西進を続けて国道に合流。国道を少し歩にて、右(北)の脇道に入る。ここは「牧落(まきおち)」で、平安時代に「豊嶋牧(てじままき)」という牛馬の放飼地があったところ。中世には「牧村」となり、江戸時代には「牧之庄」と呼ばれたらしい。南北の道路と交わるところに「道標」があった。「高札場」もあったらしい。

写真38 牧落の高札場と道標

 すぐ先、右に「八幡大神宮」の鳥居。参道を進むと正面に「八幡大神宮」、左に「久延彦命神社」。

写真39 八幡大神宮の鳥居
写真40 八幡大神宮社殿

「久延彦命(クエビコノミコト)」は『古事記』に登場する神で「久延毘古」と表記される。『日本大百科全書』には「海上を寄り来る神の名がわからなかったとき、大国主命に、それは少彦名命であると答えた神。山田之曽富騰ともいい、『足は行かねども、尽に天の下の事を知れる神なり』とも語られている」と書かれている。このことから「ちえの神さん」とされているのだろう。なお、「曽富騰」は「かかし」である。つまり「山田の案山子」。

写真41 久延彦命神社

 進むと目の前に遮断機が現れた。これが「阪急電鉄箕面線」の踏切。それを越えて「箕面市桜井」に入る。その先が「瀬川宿」のある「半町」だ。

写真42 阪急電鉄箕面線の踏切

瀬川宿

 宿場の概要はつぎの通り。

  • 所在地:現 箕面市瀬川二丁目・半町二丁目
  • 位置:東は郡山宿まで二里、西は昆陽宿まで二里。
  • 規模:本陣 1、脇本陣 0、旅籠屋 7(正徳二年)、宝暦年中に半町村内に本陣同様の構えをもつ旅舎が作られた
  • 特徴:ここで小浜村(現兵庫県宝塚市)を経て有馬に至る有馬通が分岐

 右側の「みのお自動車教習所」の前に「むかしの瀬川・半町」という説明板があった。この自動車教習所の敷地が「本陣跡」らしいが、この説明板以外には宿場町を示すものは何もなかったと記憶する。

写真43 自動車教習所前の説明板

「箕面川」の手前で左折。道の右側が「池田市石橋」になっている。街道が市境なのだ。再び「阪急箕面線」の踏切を越える。上にあるのは「国道 171 号線」の高架だ。時刻は 13:40、「瀬川宿」を出た。あるいは、曲がったところですでに宿場を出ていたかもしれない。

写真44 再び阪急電鉄箕面線の踏切

瀬川宿~石橋阪大前

 踏切の先は「国道 431 号線」。ここを少し歩きすぐ右の脇道に入る。この道は「阪大坂下」に出るのだが、その手前で「歩き旅」を終了。「高槻」からの歩行距離は 19.65 キロ、時間にして 5 時間 45 分だった。時刻は 13:50、まだ早いので「石橋商店街」を歩いた後、母校の「大阪大学」へと足を伸ばした。ここには教養課程の一年間、通っていた。宿泊はこの近くのビジネスホテル。ちょっと、石橋の商店街の写真を載せておこう。

写真45 石橋阪大前駅東口(昔は石橋駅だった)
写真46 石橋阪大前駅西口(こちらは商店街に面していて、もっぱらこちらを使っていた)
写真47 赤い橋通り
写真48 阪大下通り(昔と比べてパチンコ屋が減ったような)
写真49 阪大下通りの出口(逆方向に進んで左折、踏み切りを越えると阪大坂下に出る)
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