千葉県ぐるっとウォーキング 第26回 川間駅~南流山駅

 前回に引き続き「江戸川」を下る旅である。東武アーバンパークラインの「川間駅」を出発し、お醤油で有名な「野田」の町から「流山」に入り、JR 武蔵野線の「南流山駅」まで歩いた。

 2023 年 10 月 26 日、7:55 に「川間駅」をスタートした。「船橋駅」から乗った東武アーバンパークラインの電車は「柏駅」止まりで、ここで「大宮行き」に乗り換える。この電車が通学の学生でおもいのほか混んでいた。近くに高校があるらしく、かなりの数の学生が「川間駅」で下りた。

写真1 川間駅

 駅から南に歩く。住宅街を抜け、約 15 分で「江戸川」の土手に出た。そばに「岩名調整池公園」があり、朝から釣りを楽しんでいるオジサン達の横を通り抜ける。東に進んで「清水公園」を目指すのだが、その前に「岩名」地区の「香取大神社」に立ち寄っていこう。

写真2 江戸川の土手
写真3 岩名調整池公園

 案内表示で神社の場所はすぐわかった。鳥居があり、その横に「香取大神社」と彫られた石碑が建っている。ただの「神社」ではなく、あえて「大神社」と書く、その心意気に感心する。狛犬の先に拝殿があった。きれいに掃除されており、大事されていることが一目瞭然である。「香取神社」なので祭神は「経津主神(フツヌシノカミ)」。慶長 19 年の創建とされ、「七福村」の村社だったと説明板に書かれている。この「七福村」というのは明治 22 年に吉春村、蕃昌新田、谷津村、五木村、五木新田、岩名村および座生新田が合併してできた東葛飾郡の村で、現在は野田市になっている。7 つの村を合わせて「七福」としたのは面白い。現在、この名が使われていないのは残念だ。横に回って本殿を見る。新しいと思ったら、竜巻によって被害を受け、平成 25 年に改修されたのだそうだ。各面に立派な彫刻が施されている。

写真4 岩名香取大神社鳥居
写真5 岩名香取大神社拝殿
写真6 岩名香取大神社本殿
写真7 岩名香取大神社本殿の彫刻

 神社から約 30 分、「清水公園」の入り口に着いた。 28 万平方メートルの敷地を有する民営の広い自然公園だ。]醤油醸造業の「柏家」五代目当主「茂木柏衛翁」が明治 27 年(1894 年)に「金乘院」から土地を借り受けて遊園地(第 1 公園)を建設したのが始まりで、さらに昭和 4 年に自然公園として大幅な拡張が行われたとのこと。緑豊かな敷地にフィールドアスレチックやキャンプ場、ポニー牧場などがある。

写真8 清水公園入り口
写真9 清水公園園内マップ

 園内には元?の地主である「慈光山金乘院」がある。このお寺は室町幕府の足利義持の時代、応永5年(1398)に京都・醍醐寺の修行僧によって開山されたが、その後、真言宗豊山派に宗派が移っている。参道の入り口に「仁王門」が建っていて、その前には「空海」の像もある。あざやかな朱塗りで、300 年前に建立されたものを平成 10 年に全面修復し、ニカワの丹塗りを再現したそうである。

写真10 慈光山金乘院
写真11 金乗院本堂
写真12 仁王門と空海像

 ポニー牧場とアクアベンチャーの間の道を南に進むと、「旧花野井住宅」の門が現れる。江戸時代、「流山」の「小金(こがね)」にあった幕府直轄の「牧」を管理する「牧士」を代々勤めていた「花野井家」の住宅であり、「流山市前ヶ崎」にあったものを「野田市」が寄贈を受け、建築当初の姿に復元して昭和 46 年(1971)に移築したものだそうである。北総地域の南北に連なる台地上には江戸時代、軍馬育成のための放牧場である「牧」が いくつも作られていた。そういえば、前に行った「柏」の「吉田家」も「牧士」だった。外見は茅葺き屋根のシンプルなもの。内部は典型的な民家の造りで、保存状態がとてもよい。残念ながら上に上がることはできなかった。

写真13 旧花野井家住宅の入り口
写真14 旧花野井家住宅
写真15 旧花野井家住宅内部

「清水公園」を後に「愛宕」に向かう。駅のそばに「愛宕神社」がある。「愛宕神社」は全国に 900 社もあり、総本山は京都の山城国と丹波国の境界「愛宕山」の山頂にある「愛宕神社」であり、大宝年間(701~704)に役小角と泰澄によって神廟が建てられたことに始まる。野田の「愛宕神社」は総本山の祭神である火の神「迦具土(カグツチ)命」を勧請したものであり、創建は延長元年(923 年)となっている。「迦具土命」はイザナギ・イザナミの最後の子だが、「火の神」であることからイザナミは女陰を焼かれてこの世を去る。怒ったイザナギがその首をはねると、血から「鹿島神宮」の祭神である「タケミカヅチ」などの多くの神が生まれたという。「野田郷開墾後、郷内に勢力を伸ばし始めた土豪(農兵)等の間に争いなどがあり、山火事ばかりでなく兵火の心配も多く故に火伏の神を祀ったと伝えられています」と説明板に書かれている。

写真16 下総野田愛宕神社鳥居
写真17 下総野田愛宕神社拝殿

 本殿は文政七年(1824)から 11 年をかけて再建されたという立派なもので、入母屋造りの三間社、正面千鳥破風付き、軒唐破風付き、向背一間、銅瓦葺きで、壁と柱に精巧な彫刻が浮かし彫りされている。

写真18 下総野田愛宕神社本殿

 神社の北側には「勝軍地蔵尊(しょうぐんじぞうそん)」があった。「坂上田村麻呂」が東征のとき、戦勝を祈って作ったと伝えられる地蔵菩薩だそうだ。

写真19 勝軍地蔵尊

「愛宕神社」から「野田」の町を南へ進むと「野田市郷土博物館」に出る。隣接して「市民会館」もあるようだ。立派な門である。案内板を見て驚いた。大正末期に建てられたキッコーマン社長の「茂木佐平治」の旧宅が市民会館なのである。門をくぐると左手が博物館、正面に市民会館がある。

写真20 野田市郷土博物館入り口
写真21 博物館・市民会館案内

 説明がなければ、これが市民会館とは誰も思わないだろう。まさに邸宅の入り口である。玄関に靴が数足脱ぎ置かれていて、利用者がいることが分かった。博物館は「野田の剣術・剣道史」という企画展が開催中で 1 階がその展示、2 階が醤油関係の常設展示になっていた。見学を終えて、「旧茂木佐平治邸」の庭を見学した。

写真22 野田市市民会館
写真23 旧茂木佐平治邸庭園
写真24 旧茂木佐平治邸

 キッコーマン元社長の屋敷が市民会館になっていることが、「野田」の町がキッコーマンの城下町であることの象徴である。この地で醤油が作られたのは室町時代に「飯田市郎兵衛」が甲斐武田氏に溜醤油(たまりじょうゆ)を納めたことに始まるようだが、本格的な開始は後で訪問する「上花輪」の「高梨兵左衛門」が 1661 年に始めた醤油製造【ジョウジュウ印】であろう。これに続いて 1662 年に「茂木七左衛門本家【櫛形屋】」が味噌醸造、1764 年に醤油醸造を始める。茂木家は先に見た「茂木佐平治家【亀甲萬】」、「茂木七郎右衛門家【柏家】」など多くの分家があり、それぞれが醤油製造を始めている。もともと「野田」は醤油醸造の適地としての条件を備えていた。まず、「江戸川」が近くを流れており水利交通の便がよく、最大消費地である「江戸」から近い。さらに原料となる大豆・小麦の産地からも近い。もう一つの醤油の大生産地「銚子」と比べても、地の利は「野田」の方にある。このため、多くの醤油生産家が生まれた。1781 年に高梨兵左衛門、櫛形屋茂木七左衛門、柏屋茂木七郎右衛門、亀屋飯田市郎兵衛、杉崎市郎兵衛、竹本五郎兵衛、大塚弥五兵衛の 7 家が「野田醤油仲間」を結成し、これが後の「野田醤油醸造組合」の元となる。中でも「髙梨兵左衛門家」と「茂木佐平治家」が二大醸造家で、1800 年代中頃には、両家の醤油が「幕府御用醬油」の指定を受けている。1887 年(明治 20 年)には「野田醤油醸造組合」が結成され、1917 年(大正 6 年)には茂木一族と髙梨一族の 8 家合同による「野田醤油株式会社」が設立され、これが「キッコーマン株式会社」の元となっている(参考:wikipedea)。

「野田市郷土博物館」から「キッコーマン野田本社」の前を通り、「歴史館」のある「上花輪」へ向かう。途中「上花輪香取神社」に立ち寄った。この地区の鎮守で、室町時代の天文年間に創建されたと伝えられ、享保 12 年(1727)に氏子の請により正一位を賜ったという。

写真25 上花輪香取神社の鳥居
写真26 上花輪香取神社拝殿
写真27 上花輪香取神社本殿

 神社を過ぎるとすぐ「上花輪歴史館」に到着。上花輪村の名主で前述の醤油醸造家「高梨兵左衛門家」の元住宅であり、建造物、生活用具、醸造道具、古文書、年中行事などを保存公開している博物館である。

写真28 上花輪歴史館


 1500 円を支払い中に入り、屋敷の内覧(ガイド付き)や庭を見学した。ちょうど、「會田雄亮の世界 陶の可能性への挑戦」という特別展を開催中で、屋敷の各所に會田雄亮さんの陶器が置かれ、歴史ある部屋によくマッチしていた。門長屋は 1766 年、書院は 1806 年以前の築だそうである。「高梨家」が最初に野田での醤油製造を始めたこと、物資運搬のために鉄道の線路を敷設し、それが東武野田線(現、東武アーバンパークライン)となったという話を聞いた。帰って調べると、「千葉県は、東葛飾郡野田町(現・野田市)の醤油醸造業者から舟運に頼るだけの交通の不便さを訴えられたため、1910年(明治 43 年)8 月 3 日に野田町 – 東葛飾郡千代田村(現・柏市)間他 1 線[について軽便鉄道敷設免許申請を鉄道省に提出した。建設費は県債を募集して充てることとし、醸造組合は 20 万円でその県債を引き受けた。当初、軌間は軍用軽便鉄道と同規格の 600 mm を予定していたが、野田醤油醸造組合では鉄道院線(現・JR 東日本線)と同軌間でなければ常磐線柏駅で貨車の直接乗り入れができず不便である点を主張し、その結果、1,067 mm に変更して着工することになった。同年 8 月 31 日に免許が下りると同時期に工事が着工され、1911年(明治 44 年)5 月 9 日千葉県営鉄道野田線として、 野田町駅(現・野田市駅)- 柏駅間 9 マイル 10 チェーン (14.7 km) が開業した。(Wikipedea)」とのことである。明治の末になって、交通の中心は船から鉄道に代わろうとしていたのである。

「江戸川」土手の自転車道に上る。海から距離 37.25 km という表示が出ている。「関宿」の「江戸川」流頭付近で 59.5 km だったから、 22 km 下ったことになる。この道をこれから「流山」まで歩くのである。「関宿」までの「利根川」の自転車道はロードバイクばかりで、普通の自転車は走っておらず、ましてや歩いている人を見かけなかったが、少し雰囲気が変わってきた。ロードバイクが主流であることは変わらないが、自転車の学生や散歩者も見かけるようになってきたのだ。だいぶ町が近くなってきたと実感する。

写真29 江戸川土手の自転車道

 歩くこと 30 分、「流山」の「運河河口公園」に出た。小さな公園が運河に面して作られている。運河の東側の状況は以前に紹介したが、西側はというと写真 31 である。幅がとても狭く、これでは船が通れないと思ったら、運河としての役目はすでに終了していて、現在は治水目的で使用されているとのことであった。

写真30 運河河口公園
写真31 利根運河

「尼谷(あまや)の渡し」という標識を見つけた。昔、「流山」には 8 つの渡し場があった。江戸の防衛の為、「江戸川」には橋がなく、対岸には船で渡った。もっとも有名なのは細川たかしの歌のタイトルになった「矢切の渡し」だ(次回訪問)。「尼谷の渡し」は北から 2 つ目の渡しで、「30 人ほどが乗れる大型の舟を使用し、時には牛や馬、自転車も渡したと伝えられている」と説明が書かれている。

 慶応 4 年 4 月 2 日、「大久保大和」と名乗る男を隊長とする総勢 200 余名が南部の「丹後の渡し」から「流山」に入った。本隊が酒造家長岡屋へ、分隊は光明院、流山寺等に宿をとったとみられている。翌日、賊徒が集まっているとの情報を得た新政府軍が流山を包囲。「大久保大和」は総督府へ出頭し、幕府公認の治安隊と主張したが、実は彼こそが「近藤勇」であることが分かり捕らえられる。「近藤勇」は新政府軍とともに「矢河原の渡し」から江戸川を渡り、4 月 25 日、板橋宿で処刑された。一方、「流山」に残る新撰組の残党の隊士たちは 4 月 6 日会津へ向けて移動を始めるが、主要路が押さえられていたため、「我孫子市」の「布佐(ふさ)」から船で利根川を下り、「銚子」を経て「潮来」へと移動し、そこから陸路で水戸街道へ抜けることになったという。

写真32 尼谷の渡し場跡の標識

「上新宿新田」まで来た。「江戸川」の向こうに東京の町が見えている。小さいが「スカイツリー」も見えた。拡大してカメラに収める。

写真33 遠くにスカイツリーが見えている

 こちらは「羽口の渡し跡」の標識。「丹後の渡し」のひとつ北にある渡しである。「流山に屯集した新選組を制圧するため、新政府軍が来流し、砲列を敷いた。田中藩が統治した加村の公営の渡し場だが、近くに賭博場があったとも言われる」と書かれている。だから、「はぐち(ばくち)の渡し」というのだろうか。

写真34 羽口の渡し跡

 時刻は 14:30、左下に住宅街が広がっているのが見える。どうやら「流山」の市街地に入ったようだ。遠くにイトーヨーカドーも見えている。そろそろ自転車道から離れよう。

写真35 流山の住宅街に入った

 「流山」は古くから水運で栄えた町であり、また「味醂(みりん)」の産地としても有名である。「本町通り」に入ると、昔の町並みが残っている。女性の観光客にも出会った。町の主な史籍は「流山史籍ガイドの会」のサイトに詳しい。いろいろ見て歩きたいところだが、こちらはウォーキングの終盤である。駆け足(実際には走っていないが)で回ったところを紹介する。

  • 新川屋(写真 36):呉服店。建物は明治 23 年(1890年)のもの。1 階が店舗で 2 階が住居の「見世蔵」形式。
  • 浅間神社(写真 37):富士山信仰の神社、祭神は「木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)」、建物は天保元年(1644)造、富士塚もある。幕末に新政府軍が境内裏に仮本陣を敷いたという。
  • 梅本山常與寺(常与寺)(写真38):鎌倉時代創建の日蓮宗の名刹。明治時代、本堂を代用して「印旛官員共立学舎」が開設された。現在の千葉大学教育学部と千葉県最古の流山小学校発祥の地。
  • 近藤勇陣屋跡(写真39):近藤勇の陣営地となった醸造業「長岡屋」の跡地だが、残念ながら令和6年3月まで修繕工事中である。
写真36 新川屋(呉服店)
写真37 浅間神社
写真39 梅本山常與寺(常与寺)
写真40 近藤勇陣屋跡

 「近藤勇陣屋跡」の先を南に曲がると「万上(まんじょう)通り」に入る。「万上」とは「流山白みりん」のブランドの一つ「万上みりん」から来ており、道の左手は工場になっている。「万上みりん」は現在はキッコーマンだ。更に進むと、通りの名称が「天晴(あっぱれ)通り」に変わる。こちらはもう一つのブランド「天晴みりん」が生まれたところである。工場跡地に説明板が立っている。「流山」における「白みりん」の製造開始は諸説あるが、キッコーマンのホームページよれば、「遅くとも天保年間初頭(1830 年代初頭)までには、流山で造られたみりんが江戸・京都・大坂で評判になっていたことが明らかです」とある。なお「天晴みりん」の工場は「日光」に移転したとのことだ。

写真41 天晴みりん誕生の地の説明板

 「天晴通り」を進むとすぐ「赤城神社」の鳥居の前に出る。鳥居の先にはお椀を伏せたような小山があり、階段が上に伸びている。これが「赤城山」である。説明板によると海抜は 15 m。「赤城山」というと群馬県だが、その「赤城山」が噴火し、土塊がここに流れ着いたという伝説があるのだそうだ。「山」が「流れ」てきたので、「流山」。また、流れてきたのは「山」ではなく「赤城山のお札」だとする説もあるとのこと。いずれにしても「流山」の名前の起源がこの「赤城山」だという。そして、この山上に「赤城神社」がある。鎌倉時代の創建といわれる旧郷社で、元和 6 年(1620)再建。祭神は「大己貴命(オオナムチノミコト)」つまり「大国主命」である。現在の本殿は寛政元年(1789年)に建立されたもので、「建物上段は彩色の施された彫刻で埋め尽くされており、下段は、欅の彫りを見せるために彩色を施さず、素本造りとしています」と説明板にあるのだが、外から窺うことができなかった。

写真42 赤城神社鳥居
写真43 赤城山
写真43 赤城神社本殿

 さらに歩くこと30分、15:37 に「南流山駅」に着いた。歩行距離は 25.4 km、時間は建物見学も入れて 7 時間 42 分だった。

写真44 南流山駅にゴール
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