旧東海道歩き旅(45)四日市宿~石薬師宿(2024.11.4・5)

図1 安藤広重「東海道五十三次 四日市 三重川」

四日市宿

「東海道四日市資料館」の「語り部さんのちょこっとネタ 〜東海道四日市宿〜」に「四日市宿」の古地図が掲載されている。この地図は「東海道分間延絵図」の「四日市宿」の部分を書き直したものと思われるが、とても分かりやすい。絵の右端「仏性院」の手前から町が広がっているのがわかる。上述のブログでは宿場町は「江戸方面は川原町の和菓子屋さん『宝来軒』の北の道路辺りから」となっている。残念なことに、それと気づかず歩いてしまい、「海蔵川」と「三滝川」の間は一枚も写真を撮っていない。

図2 四日市宿古地図(「東海道四日市資料館」の「語り部さんのちょこっとネタ 〜東海道四日市宿〜」)
図3 東海道分間延絵図 四日市宿

「三滝川」に架かる「三瀧橋」(古い漢字が使われていた)を渡る。左側に石油化学コンビナートが見えている。昭和 30 年代に旧海軍の燃料廠の跡地に建設されたものだ。一時は「四日市」といえばこのコンビナートとそこからの大気汚染がもたらした「ぜんそく」の町として有名だった。燃料廠があったということは、米軍の重点爆撃地だったことを意味しており、そのため宿場の遺構はほとんど残っていない。

写真1 三瀧橋
写真2 三滝川 遠くに見えるのは四日市の石油化学コンビナート

 この「三滝川」だが、冒頭の広重の「四日市 三重川」に描かれた場所であるとされてきた。『東海道名所図会』の「三重川」の項にも「一名御滝川という」と書かれている。広重の絵では旅人が風に飛ばされた菅笠を追いかける後にちゃちな木橋が描かれ、その上でもう一人の旅人が風に飛ばされまいと踏ん張っている。ここに描かれている「三重川」は小さな川なのだが、『東海道分間延絵図』を見ると、「三滝川」は大きな川で土橋が架かっていたようなのだ。つまり広重の「三重川」ではこの「三滝川」ではない。これについては、広瀬毅氏は「歌川広重『東海道五十三次之内 四日市三重川』に描かれた場所についての考察」(令和三年度 四日市市立博物館 研究論文)の中で、広重が描いたのはもっと浜側の橋ではないかと推理している。興味がある方は、リンクの記事を見ていただきたい。

 さて、図 2 の地図では「東海道」から浜側に「浜往還」という道が分岐している。この先には船着き場があって、ここから「熱田(宮)」まで渡船が出ていた。『東海道名所図会』では「当駅海陸都会の地にして商人多く、宿中繁華にして、旅舎に招婦見えていと賑いし。尾州〔尾張〕宮駅へ海上十里」と説明されている。「桑名」を経由せずとも「宮」に行けたのだ。

 宿場の概要はつぎの通り。

  • 所在地:伊勢国三重郡(三重県四日市市北町など)
  • 江戸・日本橋からの距離:99 里 7 町 7 間
  • 宿の規模:家数 1811 軒、本陣 2、脇本陣 1、旅籠屋 98
  • 宿の特徴:古くからの港町で毎月 4 の日に六斎市が開かれたところから命名された。港から宮の渡しまで渡船あり。すぐ先の日永で伊勢路と分岐。

「三瀧橋」を渡ってすぐ左に「四日市」名物の「なが餅」を売る「笹井屋」さんがあった。ここは「ブラタモリ」の「伊勢街道編」でも紹介されていた。

写真3 笹井屋

 その先の右側に「東海道四日市宿資料館」。ここは元「問屋場」のあった場所で、以前は耳鼻咽喉科の医院だったらしい(医院の表札がそのままだ)。すると「清水本陣」はもう少し手前だろうか。写真 5 は「黒川本陣」の手前の通りの様子だが宿場町の雰囲気はしない。

写真4 東海道四日市宿資料館(問屋場跡)
写真4 四日市宿の通り

「黒川本陣」のあったところには「黒川農薬商会」の看板。同じ苗字である! その先、道なりに進んで「国道 1 号線」出る。さきほどの「語り部さんのちょこっとネタ 〜東海道四日市宿〜」では「京・大坂方面は中部(注:町の名前である)の精肉屋さん『松阪肉の丸賢』の駐車場辺りまでの約 690 mでした」とあるから宿場町はこのあたりまでだ。

四日市宿~追分駅

図4 四日市宿~石薬師宿行程

「国道 1 号線」を渡って、左折。その先で「旧東海道」は国道を離れて右に入る。すると商店街の入口に出た。右は「諏訪神社」。商店街は「表参道スワマエ」と書かれている。ということは、商店街が参道ということだ。では、神社にちょっとお詣りしていこう!

写真5 直進すると商店街、右は諏訪神社

「諏訪神社」は鎌倉時代初期の建仁 2 年(1202)に、信州の「諏訪大社」を勧請したもの。祭神は「建御名方命(タケミナカタノミコト)」と「八重事代主命(ヤエコトシロヌシノミコト)」の二柱。この地の「産土神(うぶすながみ、生まれた土地の守護神)」である。

写真6 諏訪神社の鳥居
写真7 諏訪神社社殿

 お詣りをすませて、アーケード街の中に入る。時刻は 12:00、さあお昼にしよう、と思ったがなんか寂しい雰囲気だ。人通りも少ない。昔、夜に来た「四日市」のアーケード街はとても賑やかだった。この場所は北の外れだから、もう少し進めば店があるはず。確かに「旧東海道」から外れて「近鉄四日市駅」の周辺に来ると少し賑やかになった。しかし、人通りはもう一つ。きっと夜と昼とでは違うのだろう。見渡せば飲み屋さんとラーメン屋さんばかりだ。数少ない洋食屋さんを見つけてなんとかランチにありついた。

写真8 アーケード街が旧東海道

 再び「旧街道」に戻ると、異様なものを発見。なんだこりゃあ! ロクロク首のようだ。

写真9 四日市の大入道

 後で調べて分かったのだが、これは「大入道(おにゅうどう)」というオバケで「大四日市祭り」で使われる山車の上に乗る。本物は「大四日市まつりのサイト」を御覧いただきたい。「江戸時代後期の文化 2 年(1805)に製作されたといわれる。身の丈 4.5 m、伸び縮みする首の長さ 2.7 m、高さ 1.8 m の山車に立ち、全高は 9 m。からくり人形では日本一の大きさといわれている。山車や人形の中に入った人形師 6 人が太鼓や銅鑼の音に合わせて操る。旧・桶之町の町衆がオケに『大化』の文字をあて、オバケの仮装行列を四日市祭に奉納したのが始まりと考えられ、妖怪や鬼を思わせる彫刻が山車にも施されている。また、町に出没するタヌキの悪事に困りはてた人びとが、すごみのきく大きな大入道を作り、タヌキを退散させたという民話も伝わっている」とのこと。祭りは 8 月の最初の土日に開催される。面白そうだ。

「大入道」の歓迎を受けたあと、「アーケード街」を離れた。「浜田町」に入ると「丹羽文雄誕生の地の碑」があった。作家「丹羽文雄」は「浄土真宗高田派」の「崇顕寺」の長男で、65 歳の時に『親鸞』、78 歳の時に『蓮如』という大作を発表している。このうち『親鸞』を読んだことがある。表題通り「親鸞」の生涯は描かれいるが、全体としては「浄土真宗」の歴史が書かれており、「親鸞」の教えが当時の政治や社会の動きの中で、どう変化していったのか描いている。「丹羽」は初期はマダム物や戦争物などでリアリズムを追求していたが、「亀井勝一郎」に「親鸞から逃れようとしているが、結局親鸞の足元で遊んでいる」と指摘されて、自らの宗教観について考え始めるようになったらしい。なお、写真は碑の横側で、街道側は「崇顕精舎」と刻まれていて、この奥にある「崇顕寺」の碑でもある。また、図 2 の古地図では碑の向かいあたりに「高札場」があったらしい。

写真10 丹羽文雄生誕の地の碑

 このあたりは空襲の被害が少なかっただろう、街道らしい雰囲気になった。

写真11 浜田町の街道風景

 この先、「近鉄名古屋線」の線路を潜り、「赤堀」で小さな橋を渡る。右側に線路が見えた。これは「四日市あすなろう鉄道」だ。今日は先の「追分駅」まで歩いて、この電車で「四日市」まで引き返し、宿泊する予定である。

「鹿化川」に架かる「鹿化橋」を渡る。この字「かばけ」と読む。なにか伝承でもありそうな名前だが、由来がよくわからなかった。

写真12 鹿化橋
写真13 鹿化川

「日永」に入る。左に「大宮神明社」の鳥居。「天白(てんぱく)川」の手前に「興生寺」。ここも浄土真宗高田派だ。

写真14 大宮神明社
写真15 興正寺
写真16 天白川

「天白川」を越えて、右側に浄土宗「両聖寺」。「笹川通り」の先、右側に「日永神社」の鳥居。ちょっとお詣りしていこう。説明板によれば、「天照大神」を祀る「神明社」だったらしい。明治 40 年から他の神明社が合祀され「日永神社」と呼ばれるようになったとのこと。

写真17 日永神社の鳥居
写真18 日永神社社殿

 社殿の右側に石の柱に囲まれた場所がある。ここには「伊勢街道」との分岐点「日永追分」にあった道標が保存されている。

写真19 追分道標

 説明板によれば、この道標は正面に「大神宮いせおいわけ」、右側に「京」、左側に「山田」、裏側に「明暦二年丙申三月吉日 南無阿弥陀仏 専心」と刻まれている。後ほど訪れるこの「追分」には「神宮遙拝鳥居」が建っている。これは安政 3 年(1774)に伊勢の商人「渡辺六兵衛」が建てたもので、その隣には立派な道標もある。「日永神社」の道標に彫られた「明暦二年」は 1656 年だから、「神宮遙拝鳥居」より約 120 年も古い。東海道の最古の道標なのである。それがなぜこの神社にあるのだろうか? 

 事情は次の様に推測される。まず、僧によって「追分」の場所に、道しるべとしてこの道標が建てられた。その 120 年後「渡辺六兵衛」がこの道標がある場所に「神宮遙拝鳥居」を建てた。その時、あるいは後年、道標も新しくすることとなったが、そうなるとそこにあった道標が不要となる。捨てるわけにもいかず、近くの「追分神明社」に移す。そして、明治期にその神社が「日永神社」に合祀され、それと一緒に道標もここに移されたというわけだ。

「日永神社」から先に進むと見事な松が一本そびえている。隣の家のゆうに三倍はある。説明板には「名残の一本松」と書かれていた。昔、このあたりには家が無く、縄手道の両側に松が並んで植えられていたという。その一本が切られないで残ったものだ。

写真20 東海道名残の一本松

 この先、「旧東海道」はいったん「国道 1 号線」と合流するが、すぐ右に折れる。ここが「東海道」と「伊勢街道」の分岐点、「追分」である。前述の「神宮遙拝鳥居」があった。ブラタモリでも紹介されていたが。この鳥居は「伊勢」に行けない「東海道」の旅人が「伊勢神宮」を拝めるように作られたものである。鳥居の横に新しい立派な道標が見えている。

写真21 日永追分の神宮遙拝鳥居

「旧東海道」はここからちょっとの間「県道 407 号線」になる。少し進んだ左手に、「四日市あすなろう鉄道」の「追分駅」があり、そこに 13:56 にゴールした。「桑名宿」からの歩行距離は 22.5 キロ、歩行時間は昼食・休憩含め 6 時間 18 分だった。

写真22 四日市あすなろう鉄道 追分駅

追分駅~石薬師宿

 翌、11 月 5 日、電車で「追分駅」に戻り、 7:48 に「歩き旅」スタート。昨日は「近鉄四日市駅」の周辺でまずビールで渇きを癒やし、夕食には「四日市」名物の「とんてき」をいただいた。体調は万全である。

 すぐ県道から離れて左に入る。道の右側に「米田山大蓮寺」、ここも「真宗高田派」の寺院である。この地域には「真宗高田派」が多い。それもそのはずで、本山の「専修寺」は「三重県津市」にあるのだ。

写真23 米田山大蓮寺

「真宗高田派」についてちょっと勉強しておこう。「浄土真宗」は現在、十派に分流している。これらは「親鸞」の親族・弟子から分かれていったものである。親族からは「本願寺派」「大谷派」を中心とする四派に分かれ、あとの六派は「親鸞」の弟子が広めていったものだ。その中の一派「高田派」は「親鸞」が「後鳥羽上皇」によって「越後国」に流され、放免されたのち「常陸国」で布教活動を行った時の弟子「真仏」とその子「顕知」が広めたもので、「親鸞」の初期の教えが中心となる。「親鸞」は「栃木県真岡市高田」に「専修寺」を開き、彼が京に戻ってからは「真仏」がその管理にあたった。布教の中心は関東であったが、第 10 世「真慧」は北陸・東海方面に教化を広めていった。ところが、「真慧」の死後、内部で争いが起こり、また「専修寺」も戦火で焼けてしまう。そこで「真慧」が「伊勢国」に建てた「一身田無量寿院」を本山とすることになり、「本山専修寺」と名乗った。これが「津市」の「専修寺」である。なお、この地域、「高田派」だけでなく「本願寺派」の信徒も多い。そして戦国時代には両者は対抗し、勢力争いを続けていたのだ。有名な「長島の一向一揆」は「織田信長」に対して「本願寺派」の門徒が起こしたもので、「高田派」は逆に「信長」に協力していたという。

 街道に戻ろう。右に「小古曽(おごそ)神社」の標柱。神社はここから西に少し入ったところなので、今回は立ち寄っていない。

写真24 小古曽神社の標柱

 その先、川を渡るために「国道 25 号」に合流する。この場所の名前は「内部」、川の名前は「内部川」。これで「うつべ」と読む。昔、伊勢湾の入り江がこの辺りまで入り込んでいて、波打ち際があったようだ。そこで「打邊」「打邊川」と言われたのが由来だそうである。「内部地区ホームページ」の「地域の紹介」「内部の自然環境」の項に「四日市市」の地形情報が出ていた。これによれば、西側には「宮越山(1029.7 m)」を中心とする「鈴鹿山地」の山々が連なっており、ここが滋賀県との境となる。東側には「断層崖」があり、そこから丘陵地帯を経て、「朝明川」「海蔵川」「三滝川」「内部川」「鈴鹿川」が作った扇状地とさらに下流には沖積平野が広がる。この辺りはと「地形区分図」を見ると、「内部低地」かなり奥まで広がっていることが分かる。おそらく、古代にはこの図の海岸低地は海、そして「内部」も深く入りこんだ入り江だったと考えられる。

図5 四日市市の東西地形断面図と地形区分図(内部地区の地形・地質
写真25 内部橋
写真26 内部橋

「内部橋」を渡ると「釆女町」である。「采女」とは古代、宮中において天皇に近侍し、主として炊事や食事などをつかさどった下級女官のことである。『日本大百科全書(ニッポニカ)』には、大化前代から記紀にその名がみえ、大和朝廷が地方豪族に服属の証として子女を貢上させ、宮中に仕えさせていたことが知られる」とあるから、ここからも豪族の娘が派遣されていたのだろう。

「旧街道」は国道から左に分かれる。南に進むと三叉路に出るので右折する。その先に「杖衝坂」の標識があった。これに従って左に折れると、坂道が始まる。左に「うつべ町かど博物館」、その先に進むと山の中に入っていく。

写真27 杖衝坂の標識を発見
写真28 杖衝坂入口
写真29 うつべ町かど博物館
写真30 坂は山の中に入っていく

「杖衝坂」は『東海道名所図会』には「海道筋三重郡杖衝村にあり。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)東征御凱旋の時、御足に悩みありて歩行なり難きによって、佩きたまえる御剣を解いて、杖につきたまうよりこの名あり。また右の方の山上に尊の血塚というあり。詳らかならず。また杖つき川あり。饅頭を製して杖つき村の名物とす」と書かれている。

「御足に悩みあり」の原因を作ったのは、「伊吹山」での事件が関係する。『古事記』によれば「ヤマトタケル」は東征からの帰り、尾張の「ミヤス姫」のところに「草薙の剣」をおいたまま、荒ぶる神がいるという「伊吹山」に登った。そこで、牛ほどの大きさがある白猪に出会ったが、帰りに殺そうとうち捨てて先に進む。すると、山の神は激しい氷雨を降らして、「ヤマトタケル」の体力を奪う。ようやく里にもどるとそこの清水で正気に戻った。しかし、その時の傷が「ヤマトタケル」を次第に弱らせていったようだ。

「杖衝坂」は杖をついて何とか乗り越えたが、「亀山」の手前の「能褒野(のぼの)」まで来た時、病が急激に悪くなり亡くなってしまう。この「能褒野」には「ヤマトタケル」の墓がある。全長 90 m 後円部の径 54 m、高さ 9 m の三重北部最大の前方後円墳で、明治 12 年に内務省により「日本武尊能褒野御墓」と定められ、現在も宮内庁が管理している。

 左手に「芭蕉の句碑」があった。説明板によれば、「松尾芭蕉」は馬でこの坂を越えようとしたが、余りの急坂で落馬してしまう。その時、詠んだ句が「徒歩(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」。そのままだ!

写真31 芭蕉の句碑と説明板
写真32 杖衝坂

 坂の上の右側に「日本武尊御血塚(やまとたけるのみことおちづかしゃ)」。坂の上に辿り着いた「ヤマトタケル」が足元を見ると血が出ていたので、血を洗い落とした場所とされる。鳥居を潜って上がっていくと、積まれた石の上に社があった。

写真33 日本武尊御血塚社の鳥居
写真34 日本武尊御血塚

 坂を登り切り、台地の上に出た。家々の間を抜けると次第に視界が開けてくる。国道と合流する手前に「采女の一里塚跡」。

写真35 采女の一里塚跡

 しばらく「国道 25 号線」を歩き、「鈴鹿市」に入ったところで左のわき道へ入る。その先でまた国道と出会うが、ここは横断して向かい側のわき道へ。入ったところが「石薬師町」で左側に「石薬師宿」の標柱と説明板が設置されていた。地図を見るとどうやらここが宿場の入口のようだ。9:17 「石薬師宿」に入った。

写真36 石薬師宿入口
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