コースについて
2025 年になった。昨年は「旧東海道」を「日本橋」から「京都・大阪」まで歩いたので、今年はさらに西へ、「下関」、さらには「関門海峡」を渡り「九州」まで行きたい。「西国街道」「山陽道」「中国路」という街道を歩く。昨年の「東海道」のようにポピュラーではない。名称が多数あることからわかるように、時代とともに変遷してきているようである。「歩き旅」のコース設定のために、まず、このあたりの事情を調べておこう。
平安時代の「山陽道」
「平安時代」には、「京の都」と「大宰府」(現福岡県太宰府市)を結ぶ「山陽道」は「五畿七道」の中でただ一つの「大路」であり、もっとも重視された官道だった。その京から「下関」までのコースを「延喜式」の駅名で示すと次の様になる(木下良、武部健『完全踏査 続古代の道』)。
- 九条分岐
- 山埼(京都府大山崎町大山崎)
- 草野(すすきの、大阪府箕面市萱野)
- 葦屋(あしのや、兵庫県芦屋市津知町)
- 須磨(兵庫県神戸市須磨区大田町)
- 明石(兵庫県明石市太寺)
- 賀古(かこ、兵庫県加古川市野口町)
- 草上(くさかみ、兵庫県姫路市総社本町)
- 大市(おうち、兵庫県姫路市太市中)
- 布勢(ふせ、兵庫県龍野市揖西町小犬丸)
- 高田(たかだ、兵庫県上郡町神明寺)
- 野磨(やま、兵庫県上郡町落地)
- 坂長(さかなが、岡山県備前市三石)
- 珂磨(かま、岡山県赤磐市可真下)
- 高月(たかつき、岡山県赤磐市馬屋)
- 津高(岡山県岡山市富原)
- 津峴(つさか、岡山県倉敷市矢部)
- 河辺(かわのべ、岡山県真備町川辺)
- 小田(岡山県矢掛町浅海毎戸)
- 後月(しもつき、岡山県井原市高屋町)
- 安那(やすな、広島県神辺町湯野)
- 品冶(ほむち、広島県福山市駅家町中島)
- 備後国府(広島県府中市府川町)
- 看度(かみと、広島県尾道市御調町市)
- 真良(しんら、広島県三原市高坂町真良)
- 梨葉(なしは、広島県三原市本郷町上北方)
- 都宇(つう、広島県東広島市河内町入野元兼)
- 鹿附(かむつき、広島県東広島市高屋町高屋東)
- 木綿(ゆうつくり、広島県東広島市西条町西条東)
- 大山(おおやま、広島県広島市安芸区上瀬野町大山)
- 荒山(あらやま、広島県広島市安芸区中野東町)
- 安芸(広島県府中市城ヶ丘)
- 大町(広島県広島市安佐南区大町)
- 伴部(ともべ、広島県広島市安佐南区沼田町伴旧字前原)
- 種箆(うへら、広島県広島市佐伯区三宅)
- 濃唹(広島県大野市高畑)
- 遠管(とおづつ、広島県大竹市小方)
- 石国(山口県岩国市関戸)
- 野口(のぐち、山口県岩国市玖珂町野口)
- 周防(すおう、山口県光市小周防)
- 生屋(いくのや、山口県下松市生野屋)
- 平野(ひらの、山口県周南市平野)
- 勝間(かつま、山口県防府市勝間)
- 八千(やち、山口県山口市鋳銭司)
- 賀宝(かほ、山口県山口市嘉川)
- 阿潭(あたみ、山口県宇部市瓜生野)
- 厚狭(あさ、山口県山陽小野田市厚狭)
- 埴生(はぶ、山口県山陽小野田市埴生)
- 宅賀(たか、山口県下関市清末)
- 臨門(りんもん、山口県下関市前田)
「山崎」「芦屋」「須磨」「明石」「加古川」くらいまではついていけるが、そこから先は現在と名前が違いすぎて、場所が想像できないところが多い。
中世
「鎌倉時代」に入ると、「京」と「鎌倉」を結ぶ「東海道」がわが国第一の幹線道路に引き上げられ、「山陽道」の重要性が薄れる。またこのルートでは海路の利用が盛んになったため、陸路交通が発展せず、地域間連絡路として位置づけられるようになった。庄園領主らの貢納・交易路、西国武士集団の軍事的要路、あるいは在京文人・僧侶らの西国旅程路としての性格が強まるのである。この中で「西国街道」という呼び名が現れる。街道は概ね「古代山陽道」のコースを踏襲しているが、全く同じ路線が継承された訳ではないらしい。また「駅家」に代わって交通要地には「宿駅」ができ、宿泊・輸送のための機能を持つ集落が発達した。これらの多くは江戸時代にかけて宿場町として発展していく。
近世
「近世」には「東海道」を始めとする街道整備が行われたが、「西国街道」「山陽道」は「五街道」には入らず、「中国路」として「脇往還」に位置づけられた。全コースは京の「羅城門」(東寺口)から「赤間関」までを結ぶが、その呼び名については様々なものがあって混乱している。これについては次のブログに詳しい。
https://www.yomimonoya.com/kaidou/saigoku/tyu.html
既往の論をまとめると次の様になる。
- 「羅城門」から「赤間関」までを一つの経路として「西国街道」と呼ぶ。これを「山陽道」あるいは「中国路」とするものがある。
- 「西宮」までを「西国街道」と呼び、「赤間関」まで続く「山陽道/中国路」に接続するとするものがある。この狭義の「西国街道」を「山崎街道」としたもの、「京」〜「山崎」区間を「唐街道」、「山崎」〜「西宮」までを「山崎街道」と分けるものもある。
- その他、「西宮」〜「赤間関」区間はほぼ同じであるが、東は「尼崎」「大阪」へと続き、「東海道 57 次」に接続するもの、「大阪」ではなく「東海道 57 次」の「伏見」から「納所」(淀)を経て「山崎」に入るものもある。
これらの中から、「歩き旅」のコースとして採用したのは 1 の「羅城門」~「赤間関」のルート。間の宿駅は以下に示す 53 駅ある。「東海道」と同じだが、距離は約 577 km と長い。基本的には「近世の街道」を進み、場所によっては「古代の山陽道」も歩こうと思う。
スタート:羅城門(東寺口)
- 山崎(京都府大山崎町、大阪府島本町)
- 芥川(大阪府高槻市)
- 郡山(大阪府茨木市)
- 瀬川(大阪府箕面市)
- 昆陽(こや)(兵庫県伊丹市)
- 西宮(兵庫県西宮市)
- 兵庫津(兵庫県神戸市兵庫区)
- 大蔵谷(兵庫県明石市)
- 大久保(兵庫県明石市)
- 加古川(兵庫県加古川市)
- 御着(兵庫県姫路市)
- 姫路(兵庫県姫路市)
- 鵤(兵庫県太子町鵤)
- 正條(兵庫県たつの市)
- 片島(兵庫県たつの市)
- 有年(赤穂市)
- 三石(備前市)
- 片上(備前市)
- 藤井(岡山市)
- 岡山(岡山市)
- 板倉(岡山市)
- 川辺(倉敷市)
- 矢掛(矢掛町)
- 七日市(井原市)
- 高屋(井原市)
- 神辺(福山市)
- 今津(福山市)
- 尾道(尾道市)
- 三原(三原市)
- 本郷(三原市)
- 西条(東広島市)
- 海田市(海田町)
- 広島(広島市)
- 廿日市(廿日市市)
- 玖波(岩国市)
- 関戸(岩国市)
- 玖珂(岩国市)
- 高森(岩国市)
- 今市(周南市)
- 呼坂(周南市)
- 久保市(下松市)
- 花岡(下松市)
- 徳山(周南市)
- 福川(周南市)
- 富海(防府市)
- 宮市(防府市)
- 小郡(山口市)
- 山中(山口市)
- 船木(宇部市)
- 厚狭市(山陽小野田市)
- 吉田(下関市)
- 小月(下関市)
- 長府(下関市)
ゴール 赤間関(下関市)
「西宮」、さらに進んで「三宮」までの行程については、「歴史街道 街道を歩く」の「西国街道」に詳しい地図が出ている。さらにその先については、「旧山陽道のルート情報(街道の歩き方)」に GPS データがある。これらを参考に歩いて行くことにする。「東海道」では「宿駅ごと」にブログを書いていったが、今回は「日単位」で書いていくことにしよう。
以上がルート情報だが、本編に入る前に前回ゴールした「三条大橋」と今回スタートする「羅城門跡」をつないでおこうと思う。
三条大橋~羅城門(東寺口)(2025.1.19)
2025 年 1 月 19 日の日曜日、私は「京都」にやってきた。これから「三条大橋」から「羅城門跡」まで歩く。「街道歩き」ではないので、どう歩いてもいいわけだが、図 1 のようなコースを歩くことにした。最初は「奈良」と結ぶ「大和街道」にあたる「大和大路」を「五条」まで南下し、西に折れて「五条大橋」を越え、「高瀬川」に沿って「七条」まで南下、JR 線を越えて「京都駅」の南側を西へ、「油小路」に出てここを南に進み、ちょっと「東寺」に寄り道したあと、「九条通」を西に進み「羅城門跡」に至る。

1 月の「京都」、もっと寒いかと思っていたが、天気は晴れで気温は 12 ℃。歩くのにはちょうどいい。ただ、夜から崩れるとの予報なので次の日に雨が残らなければいいが…。
お正月をすぎてから二度目の日曜日の京都、人が多いと予想した。多いには多いが、さほどではない。そもそもインバウンドが少ない。驚くべきことに「京都駅」近くのホテルが 6000 円で予約できた。今は閑散期なのだろうか?
「三条大橋」を 13:48 にスタート。「鴨川」沿いから一本東の「大和大路」に入る。人がぐっと減った。風情ある通りだ。『日本歴史地名体系』には、「鴨川に並行し、三条通より大仏門前を経て泉涌寺道までの間を南北に通じる街路。古く大和街道にあたるので、この名がある」とある。この「大仏門」とは、「旧東海道歩き旅」でも出てきた「方広寺」のことである。


このあたりではこの道を「縄手通」ともいう。「鴨川」の堤に沿っていたのでこの名があるらしい。「大和橋」を越える。川は東西に流れる「白川」で、その左の通りが「白川通」となる。ここは桜の名所である。

この先の「四条通」がとても賑やかだった。東に行けば「八坂神社」、その手前が「祇園」である。脇目もふらず、ここを直進。左に臨済宗「建仁寺」の門。

「国道 1 号線」に出て右折し、「五条大橋」を渡る。渡り終えてすぐ左、「西木屋町」通りに入る。

流れている川が「高瀬川」だ。「角倉了以」が慶長一六年(1611)に幕府に申請して起工した河川運河で川幅が四間(約 7.2 メートル)、延長五千六四八間三尺(約 10.3 キロ)あった。前に「京街道歩き旅」で書いたように、この運河、「伏見」で「宇治川」に繋がるのである。完成は慶長一九年秋頃と推定され、『日本歴史地名体系』によれば、「角倉は一六〇艘を就航、諸物資の輸送権を独占して年間一万両の収入を得ていた」らしい。

「高瀬川」にそって少し南下すると「菊浜」に出る。ここに「高瀬川船廻し場跡」の碑があった。

碑の隣にある説明板には「角倉了以、素庵親子は、鴨川の西側に水路(運河)を整備し、さらにそれを東九条~竹田~伏見と伸ばし、慶長十九年(一六一四)に高瀬川(二条~伏見)が開通した。以後、高瀬川は、京に来 ・材木・薪炭などの他、日常雑貨なども運び込む大切な通路として、大正九年(一九二〇)まで使われた。高瀬川で使われた高瀬舟「舟兵(ふね)」は、浅い水深に合わせ、浅く平らに作られた舟で、五・六隻を繋いで一組とし、それを十四~五人で綱で引いて伏見から京都まで引き上げていた。その際には「ホーイ、ホーイ」と掛け声を掛けていた。当時、この辺りの川幅は九メートル程あり、岸は砂浜のようになっていて、船廻し場とされていた。また、ひと・まち交流館東南角の菊浜区民会館辺りには回滑店があり、付近の舟繋ぎ場には、 いつも何艘かの高瀬舟が繋がれていたという。なお付近には、この川に因んだ木屋町通・梅漆町・富浜町・納屋町・材木町などの通り名や町名がある。また正面通木屋町東には米の取引所があり、それに因んだ「米浜(よねはま)」と言う呼称が、郵便局名に残されている」と書かれている。「伏見」までは流れにまかせて下れるが、帰り舟は動力がいる。江戸時代なので「人力」を活用したわけだ。
「七条」で一本西の「国道 24 号線」を南下。国道横の歩・自転車道を使って JR 線を潜る。出たところが「河原町八条」で、右折して「八条通」を西に進むと「京都駅」の前に出る。

「油小路通(国道 1 号線)」まで進み、左折して南下。ホテルはこの通り沿いにあるので荷物を置いて西へ。「東寺」には「慶賀門」から入った。

「奈良」に 10 年ほど単身赴任で住んでいた。家に帰るために「近鉄電車」で「京都駅」に出る。そのとき、「東寺」の「五重塔」がいつも見えていて、近しい存在のお寺だったのだが、学生時代も含めて一度も拝観したことはなかった。

「慶賀門」から入ると左側に拝観入り口がある。その先の「大日堂」や「太子堂(御影堂)」は無料エリアだが、「講堂」や「五重塔」は有料エリアにある。今回は「特別公開期間中」で「五重塔」の内部へも入れた。ただし、内部の写真撮影は禁止なので写真はない。
「東寺」について吉田東伍の『大日本地名辞書』はこう書く。「大宮西九条北壬生東八条南に在り、真言宗総本山。延暦十五年桓武天皇東鴻臚を捨てて東寺と為し、西鴻臚を捨てて西寺と為す。僧空海(弘法大師)入唐密教を伝え帰朝す勅して之を東寺に置く、弘仁十四年東寺長者職を以て空海に賜ひ灌頂道場とす、(中略)天長年中師資相承の官符を賜はり秘密伝法貫主の住院と為し、教王護国寺と称す。(中略)東寺は一千余年大災巨害を被むることなく、仏神呵護空からず以て今日に至る、経像図書の宝蔵、貴要豊富海内第一に居る、古文書の如き百函に上る、号して百合文書と曰ふ」。ここに書かれている「鴻臚」とは「迎賓館」のことである。Wikipedia によれば「当初は朱雀大路南端の羅城門の両脇に設けられていた。東寺・西寺の建立のため弘仁年間(810年 – 824年)に朱雀大路を跨いだ七条に東鴻臚館・西鴻臚館として移転」とある。「鴻臚館」があったところに「東寺」が作られたわけである。では、「西寺」はどうなったのか? 確かに「西寺」も作られた。しかし、正暦 元年(990)に火事にあい、なかなか復旧できなかったところに、 天福元年(1233)には残っていた塔も焼け落ち、埋もれてしまったようだ。「東寺」が生き残っていること自体が奇跡ともいえるが、それは「空海」がその貫主となったことと「一千余年大災巨害を被むることなく」という二点が関係していると思う。
では、まず「五重塔」に行ってみよう。その高さは約五十五メートル!

「五重塔は、落雷などによって 4 度焼失しましたが、そのたびに、弘法大師空海と同じように、多くの僧が奔走。五重塔再建という大事業を成し遂げてきました。いまの五重塔は、寛永 21 年、1644 年に再建した、5 代目にあたります」と「東寺のホームページ」にある。「東寺」も災害から無傷という訳ではなかったようだ。
つぎに「金堂」へと進む。この建物は「国宝」に指定されている。下層の正面中央の屋根を一段切り上げる珍しい構造だ。その奥に見えているのが「講堂」。ここに「立体曼荼羅」を表した仏像群がある。「大日如来」を中心に 21 体の仏像が並ぶ中、像に乗ったイケメンの「帝釈天」がいる。


有料エリアを出て、「太子堂(御影堂)」に行く。ここは「弘法大師」の住居だったところで、国宝に指定されている。「金堂」や「講堂」とは雰囲気が変わり、ずいぶんと優しい感じがする。屋根のスロープが美しく、女性的でさえある。


北面は「前堂」と呼ばれているそうだが、この「前堂」の横に「司馬遼太郎」氏の文章が書かれた立て札がある。その文章を掲げておこう。

国宝 西院御影堂
司馬遼太郎
私は毎年、暮から正月にかけて京都のホテルですごす習慣をもっている。訪ねてくるひとに京都のどこかの寺をそのときの思いつきのままに案内するのだが、たいてい電話での約束のときに、
――東寺の御影堂の前で待ちましょう。
ということにしている。
京の寺々を歩くには、やはり平安京の最古の遺構であるこの境内を出発点とするのがふさわしく、また京都御所などよりもはるかに古い形式の住宅建築である御影堂を見、その前にたち、しかるのちに他の場所に移ってゆくのが、なんとなく京都への礼儀のような
気がして、そういうぐあいに自分をなじませてしまている。空海に対する私の中の何事かも、こういう御影堂へのなじみと無縁でないかもしれない。
『古往今来』(中公文庫)
「司馬遼太郎が考えたこと 8」(新潮文庫)収録の「歴史の充満する境域」
(昭和五十一年)より抜粋
「東寺」の拝観を済ませて、「県道 14 号線」 を西に進むと、「東寺 南大門」の前を通った。立派な門である。明治二八年(1895)に慶長六年(1601)に創建された「三十三間堂」の西門を移築したものらしい。国の重要文化財に指定されている。

さあ、目的に向けて歩いてしまおう。「九条通」を西に進むと、「羅城門」というバス停があり、その先の右手が小さな公園になっている。そこに「羅城門」の碑があった。さあ、明日はここから「西国街道・山陽道歩き旅」のスタートである。時刻は 15:53、今日の歩行距離は 7.9 キロ、時間にして 1 時間 53 分だった。


