千葉県ぐるっとウォーキング 第23回 木下駅~柏たなか駅

 今回は JR 成田線の「木下(きおろし)駅」(印西市)から、つくばエキスプレスの「柏たなか駅」(柏市)まで、主に「手賀川」「手賀沼」沿いを歩いた。その行程を汀線=標高 5 m とした「香取海地図」(図23-2)とともに示しておく。現在の地図では「手賀沼」と「下手賀沼」が分かれてあり、「手賀川」で「常陸利根川」と繋がるのだが、古代の地図では、2 つの「手賀沼」は広大な「香取海」の入江であり、「手賀浦」と呼ばれていた。今回訪れる「香取鳥見両神社」がひとつの舌状台地の先端にあり、その北側には、「我孫子市」がある台地が「布佐駅」の東側まで伸びていた。また、ゴールの「柏たなか駅」の側まで「香取海」が入りこんでいる。近世になると水が引いて「手賀沼」は「常陸川」と分離され、さらに江戸時代に沼の下部が、また昭和には東側が干拓されて現在の姿になった。今回のウォーキングでは主に古代の「手賀浦」の南岸を歩き、「手賀大橋」を渡って北岸へと移り、北西へと歩いて再び「香取海」の入り江のそばの「柏たなか」まで歩くことになる。

図23-1 今回の行程
図23-2 香取海地図(汀線=標高5m)

 2023 年 10 月 11 日 7:50、「木下駅」をスタートした。昨夜は強い風雨だったが、打って変わって今日はいい天気だ。「成田」からの電車は「常磐線」直行の「上野行き」だった。「我孫子駅」までが[成田線」で、そこから「常磐線」に入っていく電車なのだ。ここまで「銚子」から西に向かって歩いてきて、東京が近づくにつれて、駅も次第に立派になっていく。

写真1 木下駅

 西行して「弁天川」に出る。川沿いの道は車もあまり通らず安全だ。抜けるような青空が広がっている。空気も澄んでいて、とても気持ちがいい朝だ。川辺に水鳥が集まっていた。鴨のようだ。

写真2 弁天川沿いの道
写真3 水鳥が集まっていた

 河川管理境界の標識が立っている。上流が「手賀川」で、ここから「手賀川」と「弁天川」に分かれる。写真 5 の正面が「手賀川」の上流、中央奥の右への流れが「手賀川」下流である。

写真4 河川管理協会の標識
写真5 手賀川と弁天川の分岐点

 川が「鮮魚街道」と交差する。「関枠橋」を渡って「布佐」方向へ移動する。この街道だが、「利根川の布佐河岸(現我孫子市)と江戸川流域の松戸宿を結ぶ道で、いわゆる連水陸路。鮮魚の輸送ルートでなま道(鮮魚街道)と称される」(日本歴史地名体系)ものである。水路では「関宿」を回るため時間が掛かるので、魚は「布佐」で下して江戸川まで陸送したようだ。

「手賀川」は両側に自転車道が整備されていて歩きやすい。途中、白鳥の姿を見かけたが、カメラの準備をしているうちに遠くに離れてしまった。川沿いに道を歩くこと 40 分、「浅間橋」に出る。最初の目的地である「香取鳥見神社」に行くにはこの橋を渡るのだ。

写真6 手賀川北側の自転車道

 幸い歩道橋がついていて車を気にすることなく渡ることができた。橋から上流を眺める。この先が「手賀沼」である。

写真7 浅間橋から手賀川上流を臨む

 さて、「香取鳥見神社」へのアプローチだが、Google Map では台地の手前で左折すると、すぐ神社の上がり口があるようなのだが、実際にはそんな道はない。少し迷ったのち、歩いてきた四つ辻まで戻ると、そこに台地に上がる道があった。ここを上れば何か分かるだろうと少し上ってみると、案の定、左手に鳥居があった。その先の左手に社務所、正面の林の中に参道がある。

写真8 香取鳥見神社鳥居
写真9 香取鳥見両神社参道

 少し歩くと拝殿が現れた。両側に狛犬。右が「あ」で左が「うん」だろう。拝殿を廻ると本殿がある。昭和 63 年の再建なので新しい。

写真10 香取鳥見両神社拝殿
写真11 香取鳥見両神社の額
写真12 香取鳥見両神社本殿

 鳥居の右側に「再建祈念碑」が立っており、次の様に書かれていた。

 当社『香取・鳥見神社』は、経津主命(フツヌシノミコト)及び饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を祀り、人皇 42 代文武天皇、文武 2 年(698)9 月 15 日創立を伝えられる。

 文武2年6月は、大干害にて諸作物が皆枯死し地方の人々は嘆き、近郷の農民が協力努力して当地に集合、氏神に祈願し忽ちにして甘露の雨を降らせ、五穀豊穣を得たが故に同年9月該所に一宇を建立したのが始まりです。本村産神(うぶすな)と無窮に尊敬崇拝し、その後天慶年間(938 ~ 947)平将門の反乱の際に保存し置ける宝物は、兵火で全部灰燼に帰し、本社は付近 20 ヶ村の総鎮守故に村民の信仰が厚く再建の議起こり、此の時下総国大介、千葉常重公が之を聞き費用全部支出して、社殿を再建するや一族を率いて参拝奉幣祈願し、神社尊敬の範を示した。大治年中(1126 ~ 1130)、相馬郡布瀬郷と称し、布瀬、手賀、片山及び柳戸の村々を手賀の島と言い、同神社は手賀島の郷社でした。建長 2 年(1250)9 月、手賀城主原筑前の守胤親殿が更に修繕を加え、文安3年(1146)原氏 11 代城主が本殿を改築する。寛延元年(1748)7 月 27 日、時の嵯峨御所より勅使をして、菊と桐の御紋章、勅額、御紋章付きの幕、高張提灯及び式刀を下賜された。天保 9 年(1838)11 月 24 日に改築された本殿は、総けやき 6 尺流れ破風造り茅葺き、3 面の板壁に透彫り、向拝の柱に双龍を彫りつけ美麗なものであった。

 当神社は、大正4年(1915)8 月6日、手賀村社に指定され此れを記念して同 6 年拝殿新築、本殿は昭和 52 年(1977)町の文化財に指定されました。 昭和 61 年(1986)3 月 20 日拝殿より出火、惜しくも強風に煽られ本殿も共に焼失してしまいました。そこで区民一同皆奮起し、氏子総代を始めに再建委員会を組織し区民より寄附を募りました処、区民は元より他市町の方々からも暖かい寄附を頂き、合計五千万円余の基金が寄せられ 2 年の工期を以って本殿並びに拝殿の再建を見るに至り此処に完成を祝して記念碑を建立。

昭和 63 年 3 月吉日建立

 かなり詳しく説明されている。「フツヌシ」と「ニギハヤヒ」を祀るので、ここは明らかに「物部氏」の神社であり、この辺りを「物部氏」が支配していたことがわかる。

 元の台地の裾を通る道路に戻り、西に向けて歩く。写真 13 はこの道路の様子だ。左側は台地、右はもともと多賀沼の水の中だったところで干拓されて田圃が広がっている。その北にはさきほどの「手賀川」が流れている。つぎの目的地は「手賀城跡」である。その分岐点まで約 30 分歩く。

写真13 台地の際を通る道

 地図を見ると「多賀城跡」の手前に「旧手賀教会堂」という表示がある。何だろう? と立ち寄ってみることにした。茅葺きの古民家風の建物が建っている。中を覗くと、係の人に声を掛けられた。ちょうど訪問者は私しかおらず、建物の中を詳しく説明してもらった。

写真14 旧手賀教会堂

 「手賀教会堂」とは、「手賀教会」の建築物だということである。「手賀教会」は明治 12 年にできたロシア正教の教会で、その 2 年後に近隣の民家を移築・移転して教会堂としたそうだ。ロシア正教といえば、東京神田の「ニコライ堂」が有名だが、そのニコライ神父がここで布教活動を行ったのである。明治になって、鎖国状態から抜け出た日本は海外の情報をいろいろとかき集めていた。その中にロシア正教の誘致もあったとのこと。下のパンフレットに書かれているが、ニコライ大司教はシベリア経由で函館に入り、函館・仙台・東京と布教活動を進め、船橋法典に千葉県で初めての教会が設立される。そして、大森や船穂(我孫子市)とともに作られたのが布佐のこの教会だった。

図23-4 旧手賀教会堂パンフレット2

 玄関を上がると座敷が 2 つあり、イコンが飾られ、その奥が至聖所になっている。イコンを描いたのは笠間市出身の女流画家「山下りん」である。右に「キリスト」、左に「キリストを抱いたマリア」のイコンが掲げられていた。中の様子は永田純子さんのブログに詳しい。いろいろパンフレットを貰ったのだが、その中に「宣教師ニコライ 沼南布教日記」という資料があった。明治 25 年(1892)10 月 11 ~ 13 日までの 3 日間、ニコライは手賀、布瀬、染井入新田、鷲野谷、片山、岩井の信者、有力者を訪れ、熱心に布教活動を行っている。その様子が日記に書かれているのだが、これがたいへん面白い。ちょっと一部を紹介しておく。

昼食をすませ、一時すぎに出て、利根沼(註:手賀沼の間違い)およびその沿岸の染井の、水で覆われた田圃を小舟で行った。染井は手賀と同じ側に位置する戸数わずか六軒の小さな村落。染井まで二〇丁とのことだったが、船で約一時間半かかった。(中略)染井から小舟で布瀬(フゼ)へ向かった。布瀬は手賀の先(同じ岸の右側。それに対して染井は左側)にある戸数およそ一〇〇戸の村落。天が降りはじめた。手賀から布瀬までも同じく二〇丁というのに船で夕暮れまでかかった。いま網で野鴨を捕らえる猟のために囲いがなされていて、その猟場を迂回して行かねばならなかったからである。鴨猟は一〇月に始まり三月まで続く。広い範囲で網を水面から上へ立てて張る。猟師たちの小舟は葦の間に潜んでいる。日が暮れてくると鴨が群れをなして飛来し沼に降りる。その降りてくるときに網にかかる。それを生け捕りにする。たいへんな数で、たとえば布瀬ではどの家も網を仕掛けるが、一軒の家で一晩で二羽から二〇羽の収穫がある。捕らえた鴨は東京の市場に出すまで生かしておいて、出荷の際に絞めて運ぶ。昔からこれがこの辺りの村々の収入の多い副業の一つなのだ。(中略)鴨の他に、沼で獲れたたくさんのうなぎもここから東京の市場へと送られている。ここのうなぎは東京では有名である。

宣教師ニコライ 沼南布教日記(千葉県史研究第七号)

 明治にはこの台地の裾は田圃ではあったが水が覆っていて、そこを小舟で通行していたようだ。「布瀬」はさきほどの「香取鳥見両神社」のあった辺りである。歩いて 30 分のところだが、鴨猟のせいで舟行は相当時間がかかったようだ。「染井」は「将門大明神」の手前の集落で、歩いて 1 時間弱のところである。鴨猟だが、そういえばここに来るまでに「鴨料理」の看板を見た。

 つぎは「手賀城跡」に向かった歩く。だが、現在は石碑がぽつんと立っているだけである。周りは畑になっている。そういえば「旧手賀教会堂」で「石碑しかありませんけど」と言われたのを思い出した。千葉氏の一族と考えられている原氏が城主であったが、1590 年の小田原征伐によって廃城になった。

写真15 手賀城跡

 城跡から北を臨む。「手賀沼」を埋め立てた跡にできた田圃が広がっている。その向こうは「手賀川」だ。遠いに筑波山が見えている。

写真16 手賀城跡からの眺め

「将門大明神」があるのは次の東西に伸びる舌状台地で、その北側が「手賀沼」である。西側には「手賀の杜」という団地ができている。鳥居の先に「岩井青年館」が建てられていて、その軒下が参道という変わったことになっている。

写真17 将門大明神
写真18 将門大明神拝殿

 祭神は「平将門」その人である。左側の説明板には次の様に由緒が書かれている。

将門大明神  祭神 平新皇将門

 桓武天皇を祖先として父平良将と共に下総の国相馬郡岩井村に住居し、下総の国の開発と共に住民の生活安定に心血をそそぎ信望を集めたり。父良将は陸奥鎮守将軍と下総介であった。将門公は相馬の御厨の下司職を父と共に世襲す。風早村大井将門山に出城を置き、布瀬高野に高野御殿を築き、土塁跡は今も保存されている。律令制から荘園制への改変過程で、領土問題より上総の国日立の国と爭いを起す。京都朝廷より将門追討の命を受け藤原秀郷、関東に下る。田原藤太秀郷戦勝祈願の為、成田に不動明王を祭る。日立の国主平貞盛と協力して将門公と戦う。天慶三年二月十四日春一番の突風に遭い戦斗困窮せる時、羽鳴り鋭く飛んで来た鏑矢、右眼を射抜き砂塵の中に落馬す。時に午後三時、相馬小次郎将門公再び立たず。之を承平天慶の乱と云う。第三女の如蔵尼、父将門居住の此の地に祠を立て、その霊を弔う。社殿は幾度か新築改造されたり。(後略)

「平将門」の母は下総相馬郡(現在の柏市、我孫子市)の出身であり、当時は子供は母方の里で育てられるので、この地で育った。そのためか、柏市には将門に関する数々の伝承があるようだ。上の「大井将門山の出城」「布瀬の高野御殿」もその中の一つで、柏市のホームページに詳しい。拝殿には精密な彫刻が施されている。

写真19 将門大明神拝殿の彫刻

「将門大明神」から北に歩き、「手賀沼」の岸沿いの道を歩く。「手賀大橋」を渡り、中央から対岸の我孫子市の風景を撮った。左側の塔のある特徴的な建物は「手賀沼親水広場」の「水の館」。どうやら「我孫子市」側は橋の東側にいろいろな施設があるらしい。今回は残念ながら訪問できなかった。

写真20 手賀沼南岸沿いの道
写真21 手賀大橋から我孫子市側を臨む

「手賀大橋」の西側には「我孫子高校」があり、その先は住宅街になっている。そこを抜けて「手賀沼公園」に行ってみる。「我孫子市」は、核兵器の廃絶と恒久平和を願い、昭和 60 年 12 月に「平和都市宣言」を行った。その関係で、「平和の記念碑」や広島市の「平和の灯」から火を譲り受け点灯した「平和の灯」など様々な平和のシンボルが設置されている。

写真22 手賀公園の平和の記念碑と平和の灯

 さらに「手賀沼」に沿って西へ「北柏ふるさと公園」まで歩いた。こちらは水生植物園になっている。

写真23 北柏ふるさと公園

 時刻は 13:25、ここから北に向かって住宅街の間の道「けやき通り」を歩く。「松葉町」の北 500 m の「花野井」にある「旧吉田家住宅歴史公園」を目指しているのだ。朝の「手賀教会堂」でここのパンフレットをもらった。「柏の先まで行くことがあったら寄ってください」との話で、その時はそんなところまで行く余裕はないだろうと思っていたのだが、実は「北柏」まで来て、この「吉田家住宅」は「柏たなか駅」の側じゃないかと気が付く次第。

「花野井神社」の手前が住宅公園になっている。駐車場をすぎ芝生広場の横の道を歩いていると立派な洋館が見えた。話では古い民家だとのことだったが、住宅公園になっているから、きっとヨーロッパからも家を移設したのだろうと思いながら進むと、「旧吉田家住宅」の正面に出た。

写真24 旧吉田家住宅歴史公園 入り口

 高齢者料金の 110 円を支払い、中に入るとボランティアガイドのおじさんが待ち構えていた。時刻は 14:25 で、15 時台の電車に乗りたいのでちょっとためらったが、手短に説明してもうらうことにしておじさんについて行った。

「吉田家」は農家ではあるが、江戸時代に幕府の軍用を放牧する御用牧(ごようまき)の管理にあたる牧士を務めたことから、苗字・帯刀を許された士分格の家柄で、名主を務め、醤油の醸造も行っていた豪農である。この住宅には、現在の当主の母親が一人で住んでいたが、ご逝去の後、屋敷を柏市に遺贈され、歴史公園として平成 21 年から開園しているものだそうだ。先ほど見えた立派な洋館がなんとご当主のお家で、奥様はあのテニスの「沢松和子」さんとのこと。そばにテニスコートがあり、スクールを開いているとの話だった。

写真25 旧吉田家住宅 母屋

「旧吉田家住宅歴史公園」の詳細はホームページを参照いただくとして、簡単に住宅の中を説明すると、入り口を入ると土間がありその右手に田の字型に四部屋ある。ここまでは昔の家の作りそのものである(私の父の実家も農家でこの造りだった)。吉田家は穀物商・醤油醸造業もしていたので、土間から上がってすぐの間は店になっている。さらに奥に書院が造られていてここは武家の造りになっている。つまりひとつの住宅に農家・商家・武家屋敷の三様式の部屋が存在する珍しい造りなのだ。さらに、奥に新座敷が造られこちらは普段の生活で使われていたものである。下の見取り図に振ってある番号は「見どころ」を示すもので、説明していただいたおじさんが普通は 1 時間くらいかかると言われていたが、たしかに見どころ満載だった。

図23-5 旧吉田家住宅見取り図(パンフレットから)

 さて、「旧吉田家住宅」を後にして、「柏たなか駅」へと急ぐ。「柏ビレジ」という住宅街の中を歩く。東急不動産が開発した街で気持ちのよいところだ。約 40 分で駅に着いた。時刻は 15:36。今回の歩行距離は 28.8 km、時間は 7 時間 43 分だった。次回はいよいよ千葉県の最北端「関宿(せきやど)」を目指す。

写真26 柏たなか駅にゴール
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